私が働く理由は特になかった。
社会人は働くことが当たり前だと思っていたからだ。それに職場での人間関係は良好だったし、それなりにやりがいもあった。何より働いている自分は社会に必要とされている気がして嫌いじゃなかった。

二十二歳に結婚し子どもを授かったが二度流産している。初期の流産は母体側の原因は少ないと言われているが、行き場のない悲しみ、働いている自分を責め、憎しみさえ持ち始めていた。もう次に悲しいことがあれば、働くことはあきらめようと思っていた。
それから一年後に私は妊娠することが出来た。また悲しいことになるのではないかと不安だったが娘を出産することが出来た。

不安を抱えた初めての育児。「ママ」と呼ばれるのはプレッシャーだった

初めての育児は手探り状態で、楽しむよりもいつもどこかに不安を抱えていたと思う。
娘がなぜ泣いているのか分からず、一緒に泣いたこともあった。なぜ”ママ”なのに娘のことが分からないのだろうと頭を抱えていた。
今思えば、あの時の精神状態は少しおかしかったのかもしれない。周囲の人はもちろん、かつての恋人からも”ママ”と呼ばれるのだから何とも変な気持ちだった。

私はようやく‘‘ママ‘‘になることが出来たのに、”ママ”と呼ばれることにプレッシャーを感じるようになっていた。
それは”ママ”になったのに言ってはいけない気がして心の中に閉じ込めていた。SNSを開けば自分だけが社会から取り残されたような気がしていた。”ママ”になる前は、お気に入りの服を着て好きな場所に行き時間を気にせず過ごした。食事は自分の時間に合わせ、温かいものを食べていた。
育児が始まれば授乳しやすい服を着て、食事は娘が寝ている間にかき込んで食べる。お出かけは授乳室があるお決まりのショッピングモール、腰には常に抱っこひもを装着し二〇代なのにぎっくり腰にもなった。
なかなか食べてくれない離乳食のストックを作り、床に投げ捨てられる毎日だった。今思えばもう少し肩の力を抜いてもよかったのではないかと思う。でも、あの頃の必死さは私なりの娘への愛情だった。

保育園と職場復帰 制服に「ママじゃないみたい」とくるりと回った

保育園に入園することができ、職場復帰の日が近づいていた。母に「もう仕事辞めて育児に専念すればいいのに」と言われ、「そうだね」と答えた。違う、そんなことは一度も思っていない。むしろ少し胸が高鳴っているくらいだ。
私は娘を送り出し電車で職場へ向かった。生まれてからずっとそばにいた娘がいない寂しさもあったが、鞄の中身がいつになく軽く感じていた。
制服に袖を通し、ポケットの中身を確認する。鏡に映った自分を見て「何だか”ママ”じゃないみたい」とくるりと回ってみた。

慣れない環境から一週間経ち、気が付いたことがあった。職場には、私のことを”ママ”と呼ぶ人はいない。”ママ”ではなく名前を呼んでもらえるのだ。すごく新鮮で快感だったのを今でも覚えている。

職場は私に戻ることができる場所 私は私でいるために働いている

”ママ”ではなく”私”に戻ることができる。働くことで私は”ママ”を休止させることが出来たのだ。
職場では娘の話よりも仕事の話をすることが多かった。当たり前なのかもしれないが私には気が休まる時間だった。仕事が終われば急いでお迎えに行き、食事の準備をしてお風呂に入る。慌ただしいが、きっと私はあのまま働かずに育児に専念していたらノイローゼになっていただろう。
人間は勝手なものであんなに働いている自分が憎かったのに今は働いている自分の方が好きだ。私にとって働く理由は”ママ”になっても社会と繋がり、私が私であるためだと気づいた。