わたしが働く理由、それは、奨学金を返すためである。
夢もへったくれもない理由だが、これが大きなウェイトを占める。他にも理由があることに気づき始めたが、宝くじで高額当選しても働き続けるかと問われたら、気持ちが揺れてしまいそうだ。

朝から晩までバイトと授業でぱんぱんだった 生きるために必死だった

私の家は家計が苦しかった。大学に合格後、入学金が払えないから諦めてくれと父に言われて大泣きした。20万円も出せない家庭なのかと絶望もした。見かねた祖父が援助してくれたおかげで、進学することができた。そこからは、奨学金とアルバイト代で、学費と生活費を工面した。
朝6時から9時まではコンビニエンスストアで働き、その後は授業、17時から0時まではホテルのフロントと宴会場で働いた。何連勤もしていて、今思えば、よくそんな生活をしていたものだと思う。働かなければ生きていけないので、必死だった。

就職後も生活に余裕はなかった。自分の収入は同年代の平均以下であった。
努力が足りないと言われれば、そうだろう。もっと勉強していればよかった、目標や計画を明確にすべきだったと思っている。
自分の取り柄と言えば、苦労の連続でも折れなかった粘り強さ、責任感の強さくらいで、目に見える成果はそうないのだ。

生きることと奨学金 いつの間にか手段と目的がごちゃまぜになっていた

辛くても、奨学金を返すまでは死ねない。保証人になってくれた親族に負債を背負わせられない。この思いが私を繋ぎ止めてきた。生きるために奨学金を借りたのに、奨学金を返すことが目標になっていて、それが人生を放棄しないストッパーになっているとは皮肉だ。返済を終えた時、私の生きる意味や存在価値を、どこに見出せるのだろうかとぼんやり考える。

しかしながら、悲嘆に暮れているわけではない。働くことで得られる喜びがあるからだ。
人の役に立てた時、褒められた時、とてつもなく嬉しくなる。自分のことを見てくれる人がいる、認めてくれる人がいるということは、励みになる。自己肯定感や自己重要感が高まるのだ。これらも、わたしが働く理由の一つだと感じている。願わくば、自分の存在意義は人に満たしてもらうのでなく、自分で満たせるようになりたいものだが。

食卓に並ぶお皿が増え、大切な人と楽しい時間を過ごせるようになった

「あなたがいてくれて良かったと言われるような人物になることが、私の目標です」
これが、就職活動中の決め台詞だった。当時の履歴書を破り捨てたい。今なら、このような気持ち悪い言葉は書かない。他の誰かが同じような言葉を発していても、それは気持ち悪いと思わないので安心してほしい。自分だから、耐え難い。人に必要とされたい気持ちが滲み出ている。
会社は、自分の欲求を満たす場所ではない。

恵まれない家庭環境、奨学金、劣等感、それらはいつも付き纏ってきた。
自分で受け止めて、消化していくしかない。呪縛から解き放たれた時、前向きな働く理由を見つけたい。少しずつ、見え始めている気がする。食卓に並ぶお皿の数が増えた、デザートを食べられるようになった、大切な人と楽しい時間を過ごせるようになった、そういった幸せも働く理由に通じている。