思い出したくない記憶がある。
思い出すだけで恥ずかしくって手で顔を覆いたくなるし、何なら今も書こうとしながら戸惑っている自分がいる。

忘れてしまえばいいと思う。
でも、私が敢えて今思い出すのはやっとあの夏を乗り越えたから。そして少し立ち止まる必要も感じているから。
馬鹿だなあ、同じ恋愛なんて二度とないのに。
でも、少し成長した自分と出会うためにも、思い出している。

フィレンツェの街を泣きじゃくりながら歩き続けた

あの日私は、彼の手を振り払って、オレンジに輝くフィレンツェの街を泣きじゃくりながら行方も分からず歩き続けた。今考えると酷い絵だ。泣きじゃくりながら歩き回るアジア人女性にさぞ、通りがかりの人も驚いたことだろう。通報されなくて良かったとむしろ感謝している。

涙が止まらなくて、でも誰かに話したくて。娘が今地球のどこにいるかも知らない母親に突然泣きながら電話をかけてビックリさせた。普段は自分から連絡なんてしないのに、迷惑な娘である。大人にもなって、こんな恥ずかしい醜態を晒せるのはやっぱり家族か同じ痛みを経験した者だけだと思ったのだ。

別れることが悲しくて泣いていたんじゃない。どうにもならない状況と分からない感情表現に混乱して泣くことしかできなかった。だから彼が「どうしたの」「何が悲しいのか言ってごらん」と優しく肩を抱きながら私に問いかけるたびに「それが答えられたら泣いてない!」と思いながら首を横に振ることしかできなかった。私は不器用だった。

彼の口から「別れよう」の言葉を聞きたくなくて、自分から言った

フィレンツェの街は美しくて、陽気で、太陽のきらめきと、何処からともなく流れてくる音楽と。道行く人々は幸せそうだった。まるで私一人、街全体から仲間外れにされたかのような気分。太陽の汗と私の涙のお陰で喉が渇く。泣き顔が恥ずかしくて水すら買えない。最悪だった。

フィレンツェを泣きじゃくった日に別れたわけではない。私はその前の数か月間をかけてじっくりじっくり失恋していたのだ。そして彼の口から「別れよう」の言葉を聞きたくなくて、自分から言った卑怯者だ。いや、彼のことが心の底から大好きで仕方がないのに、もう一人の私が言ってしまった、そんな感覚だった。
一瞬歪んだ彼の表情と一筋の涙を見て、しまった、と思った。取り返しのつかない言葉を自分は口にした、と。
今だったらもっと上手くできるんだけど。やっぱり私は不器用だ。

人のことを好きになると、生活の最優先が「彼」になってしまう

私はどうもレンアイが下手だ。
人のことを好きになると、本当に本当に好きになってしまう。
生活の最優先が「彼」になり、それを基準に他を組み立てかねない。過去を振り返ると「よくも、まあ」と自分に呆れる。
自分も無理をして、彼にとってもいい迷惑。

そして、彼の一番は私じゃなかった。夢を全力で追う目が好きだった。だから、自分を納得させるために、サン=テグジュペリの「本当の愛は、もはや何一つ見返りを望まないところに始まるのだ」の言葉に再会したのもこの頃だ。
付き合い始めの頃は不公平だ、とふくれていたけれども時が経つにつれて公平なんて存在しないと気づいた。人の愛の対象に綺麗なランク付けが出来るなんて私はもう思わない。瞬間ごとに何かが一番で何かがそれ以外になるだけの話だ。
そのことに気づけなかった愚かな私は彼を最優先にし続けた。たぶん、元来そういう人間なんだと思う。だめだなぁ、自分。反省しているんだけれども。
彼のことが好きになるにつれて自分のことは嫌いになっていく。残酷な反比例だ。

私が手放したのは彼を好きでいる自分

遠距離が辛かったんじゃない。時差が辛かったんじゃないし、彼が夢を全力で追っていることが辛かったんじゃない。

最後はね、彼と向き合う中で自分を上手くコントロールできていない自分自身が嫌で、嫌で、仕方なくなった。だから私が手放したのは彼を好きでいる自分だ。
一つだけ確かなことは、ある日、私はまた人を全力で好きな自分に気づくだろうということ。
その時にそんな自分を受け入れられるのか。成長して自分を上手くコントロールできるのか、やっぱり不安。だから敢えて思い出したあの夏。

あんなに陽気で美しい街を涙の街として記憶するのは何だか悔しい。だから今度は大好きな人と笑ってフィレンツェの街を歩きたいなあ。