あの頃のわたしは、彼がどうしようもない男だと分かっていてそれでも側にいたかった。彼がわたしの世界の全てだった。
ジンジンと痛む下腹部より、何だか胸が痛かった
十八歳の三月、高校を卒業した。友人らが卒業旅行に行く中で卒業式の翌日からという光の速さでわたしの社会人生活は始まった。慣れない仕事に口うるさい先輩。学生気分の抜けないゆとり世代は、一瞬で病んだ。それはもう病みに病みまくった。ただ、入ったばかりの会社を速攻で辞める勇気など持ち合わせていない。毎朝半泣きで電車に乗る日々。そんなわたしの心の支えは、出会ったばかりの彼だった。
久々に会った友人からの紹介で相手は私より歳上の社会人だった。毎日どれだけメッセージのやりとりを重ねていても彼はマメに返事をくれた。誰かに縋りたかったわたしは、すぐに惹かれていった。
けれども初対面のその日、わたしは泣くことになる。彼はふわっとした雰囲気で優しそうな顔をしていた。二人でドライブに行きご飯を食べた。そしてその夜わたしは、求められるがまま簡単に「初めて」を捨てた。
終わった後すぐに部屋を出て、近くのバス停のベンチに座り込んだ。涙が出て止まらなかった。ジンジンと痛む下腹部より、何だか胸が痛かった。何故痛いのかよく分からない。喪失感なのか哀しみなのか。でも、幼かった私はもっとソレを神聖な行為だと思っていたのかもしれない。想像よりも生々しく痛く意外とグロテスクなソレを。
何度泣いても、彼がいない生活は考えられないと思っていた
そんなわたしも、日々を過ごす中で色々なことに慣れて、擦れていく。初めてを捨てたあの日、まだ彼と付き合ってはいなかった。彼は誰にでも優しく、女にだらしのない男だった。しかし紆余曲折、付き合うことになりそのまま自然と一緒に暮らす日々が始まった。
二人で過ごす毎日は、単純に幸せな時間だった。部屋で寄り添って映画を観る。ご飯を食べる。知らない土地へ行き写真を撮る。手を繋ぐ。海岸のアスファルトに寝転んで空を仰ぐ。潮風を感じる。そのまま二人で空へ手を伸ばす。視線をずらすと、船着場から海へ花束を投げる女性がいた。その姿を二人で見つめながらドラマみたいだねと話した日もあった。今も瞼の裏に焼き付いている様々な光景。あの頃、わたしの世界には彼だけが必要で、確かに大好きで仕方なかった。
時は経ち、三年。眩しくて直視できないような幸せな時間は、永遠には続かない。彼は、当然のように軽い浮気を繰り返していた。手近な女と浮気する。バレる。でも、わたしたちは別れなかった。何度別れ話をしても、実際に別れる事はなかった。わたしにも彼にもお互いが必要だったから。必要なんだと思っていたかったから。何度泣いても、彼がいない生活など考えられないと思っていた。
三年前の誰かに縋りたい自分はそこにはいなかった
そんな頃、彼の転勤が決まり、わたしは遠距離恋愛を選んだ。本当はこの頃から、自分が彼との未来を望んでいないという事実に心の何処かで気付き始めていた。
最初はとにかく寂しくて仕事に没頭した。ただ、それが紛れると同時に自由を感じていた。何にも縛られず一人だけで過ごす時間。経験を積んだことで順調に進んでいく仕事。もはや、三年前の誰かに縋りたい自分はそこにはいなかった。
そして、その日は本当に突然やってきた。いつもどおり残業をして、駅へと向かう。繁忙期を終えて清々しい気分で歩いていた。夜風が気持ち良くて、涙が出そうになる。そのままわたしは彼にメッセージを送った。「別れる。今までありがとう」
五分前まで何も決めていなかったのに。指が自然と文字を打っていく感覚だった。
「そうしたいのなら仕方ないね、ばいばい」と彼からそっけなく返事が来た。彼はプライドが高い。わたしをきっと引き止めないし、いつものちょっとした別れ話だと思っていると理解していた。熱りが覚めたら、わたしが連絡してくると思っていることも分かっていた。だから、連絡先を消して、すぐに携帯の番号も変えた。
彼との日々は意外とあっけなく終わった
わたしが彼と別れた理由は、綺麗な過去の一瞬に縛られたくなかったからだ。美化されていく記憶にはもう捉われない。不安だらけの彼との現実に早く見切りを付けたかった。そして誰かに縋る自分をもう見たくはなかった。彼との日々は意外とあっけなく終わった。世界の全てだったはずなのに終わってしまうとこんなものだったりする。
わたしは少しだけ潔癖になった。疑り深くなった。川や海が好きになった。ビールを飲むようになった。全て彼から貰ったもので、そうやって彼の一部をどこかに抱えたまま、わたしは、私としてこれからも生きていく。