今から10年以上前。私は「臨床心理学の教養を身に付けた教員」になることを目指して、2足のわらじを揃えて新入生を待つ大学を探し、入学した。
そして月日は流れ、私は3回生となり、卒論のテーマを決める季節がやってきた。

卒論に向けて、学生生活の「充実度」と「就職不安」の関連を調査

臨床心理学という幅広い学問。その中で私は「就職に関する不安」という、当時自分にとってタイムリーだった事柄を、卒論のテーマとしてピックアップした。

私はまず、「就職に関する不安」を「就職不安」と名付け、それを3つに分類した。
1つ目は、就活そのものをこなせるかという「就職活動不安」。
2つ目は、内定が勝ち取れるかどうかという「就職可能不安」。
3つ目は、就職先でうまくやっていけるだろうかという「就職後不安」。

つまり、就活中・内定を得るまで・働き始めてから。学生が働く事に対して感じるもやもやを、取り敢えず3つの期間に区切ったのだ。

加えて私は、学生生活の「充実度」を測る質問を用意した。私が定義した「充実度」とは、所謂「リア充」的なウェーイ値(?)を測ったものではない。学費を払って学ぶ者達の、日常の「充実度」だ。

私はそれらを盛り込んだ質問紙を作成して、学生に配った。そして集計した値の相関性をみるために、統計ソフトに掛けた。

結果。
「学生生活の『充実度』が高い群は、『就職活動不安』と『就職後不安』を感じにくい」ということがわかった。私は「やっぱりな」と思った。
私達の不安の質量は、豊かな学生生活を送る事で抑制されるのだ。あくまでもベースになるのは、学生生活。結論は出た。

しかし同時に、「学生生活を充実させようがさせまいが、『就職可能不安』は軽減できない」ということもわかった。
つまりこれは、「いくら学生生活を充実させても、自分が採用されるかどうかの不安からは逃れられない」ということ。やはり就活は数値を測って捉えてみても、手強い物だった。

私はその他、質問紙に用意した自由記述欄の回答や、いくつかの文献などを参考にして考察した文章を添えて卒論を提出し、無事に学生生活を終えた。

主婦の私も会社で働く友人も、それぞれの立場で「就職後不満」がある

それから6年経った今、主婦をしている私は未だに、「就職後不安」、いやもはや、「就職後不満」を抱えている。

私は1度ならず就職した。しかし、結婚や出産などを経て、家庭と仕事のどちらかを選ばなくてはならないという局面を迎える度に、私は家庭を選んできた。
その決断に後悔はないが、小さな不満はある。その不満は一言では言い表す事のできない、複雑なものだ。

私の友人の多くも、どこかしらの会社に入社していった。しかしその先には、想定外の仕事内容、欠落した福利厚生、やっかいな人間関係に関する不安の種が埋まっていた。
不安はやがて芽が出て、「就職後不満」となり、それが原因で転職や退職をした友人もいる。今も変わらず同じ場所で働く友人もいる。
そんな友人達が抱える不満も、やはり一言では言い表す事のできない、複雑なものだ。

 
そんな友人達の様子を見た今の私は、学生の頃と同じように、考える。わたしを含めて各々が抱える「就職後不満」と日常生活の「充実度」との相関関係を。
そして私は、すでに学生ではない私達の「就職後不満」に関しても、豊かな日常生活を送る事で抑制されるのでは?と、仮説を立てるのである。
あくまでもベースになるのは、日常生活なのではないだろうか、と。

私がここで言う日常生活とはつまり、「働いていない時間」の事。だから私は、「働いていない時間」にこそ、働く理由を据えたい。堂々と。

好きなことを仕事にすればいいとかそういう話ではない。やりがいのある仕事が尊いという訳でもない。私が言いたいのは、「日常生活の『充実度』と『就職後不満』の相関性を、見直そう」という、当たり前かもしれない提案なのである。

あくまでも「働いていない時間」をベースに、働くことと向き合いたい

このコロナ禍において、大勢の人々の日常生活が壊れた。ここ「かがみよかがみ」の中でも 、そんな声が悲痛に響くエッセイを、私はたくさん読んできた。

この世知辛い時代を生きる私達が、豊かな日常生活を送るために、何か1つ求めるとするならば。それは、「これでいいのだ」と言う、自負なのだと思う。

働くこと、もしくは働かないこと。バリバリ働くこと、もしくはボチボチ働くこと。どんな決断をしたとしても、あるいはどんな決断に追い込まれたとしても。
この決断が「働いていない時間」の「充実度」を下げない、あるいは「充実度」を維持、もしくは高めているという自負があれば、私達は、なんとかやっていけるのではないだろうか。

あくまでも「働いていない時間」をベースとするのだ。学生の本分は、学生生活にあるし、個人となってからの大人の本分は、個人の日常生活にある。
働くために、死んではいけない。個人の日常を豊かにするために、働くのだ。

主婦の私からしたら、今は日常生活全てが「働いていない時間」だ。しかし、家族で下したこの決断に、自負を持ちたい。日常を充実させればそれでいいのだと、思いたい。

仕事に関する決断が、日常生活の「充実度」を下げていませんように

働く理由。大学を卒業してからの6年間のなかで、私が社会に出て働き、お給料をもらっていた期間は、寄せ集めても1年にも満たない。
私は今、学生時代に目指した「臨床心理学の教養を身に付けた教員」ではなく、主婦として生きている。 しかし、4年間で学んだ事は、主婦の私の中にもしっかりと根をはっている。

そんな私が、理想を言うとするならば。私が次の機会に働く理由は、 「働くことで、『働いていない時間』の『充実度』を高めるため」だ。

……消極的かもしれないが、これが今の私の答え。
私は同世代の友人達に対しても、仕事に関する決断が、それぞれの日常生活の「充実度」を下げていない事を望む。本人が納得できるものであって欲しい。そして未来の私も、そうであって欲しい。

そんな願いをこの文章に込めて、私の卒論の振り返りを締め括る。