大学生のとき、神楽坂にある料亭で短期のアルバイトをしていた。とにかく金欠に悩まされていたわたしは、「高時給」「日払いまたは週払い可」「勤務地が定期券内」という条件のもと、血眼でバイトの求人サイトを見漁った。
そこで見つけたのが、神楽坂にある料亭での給仕の仕事。着物で接客なんてちょっとステキ、しかも場所は神楽坂。同級生にも自慢できそう。
わたしは、すぐに応募ボタンを押した。ほどなくして面接の案内が届き、翌週からわたしはその店で働くこととなった。
神楽坂の料亭でアルバイト。失敗もしたが、少しずつ仕事に慣れてきた
店は通りに面した場所にあり、こぢんまりしているが歴史を感じる構えだった。裏口から入り、更衣室を案内された。まずは、着付けから教えてもらえた。更衣室でわたしを待っていたのは、母より少し年上くらいの、痩せた女性だった。片手には、たばこを持っていた。
「じゃあ、服を脱いで」と、淡々と言い放つそのオーラに圧倒されてはならないと、わたしは迷うことなく服を脱ぎ捨てた。すると彼女は「今どきの子って、なんの恥じらいもないのね」と目を丸くした。そっちが「脱げ」と言ったのに。わたしは早速、心が折れそうだったが、日当を頭の中で計算し、なんとかこらえた。
着付けが終わると、今度は配膳の基礎を教わった。上座はどこで、箸の位置はここで、このお皿はここ、今日のお造り、焼き物…とにかく覚えることが多かった。思い出すと、顔から火が出るほど恥ずかしい失敗もたくさんしたが(たとえば、日本酒をお湯割にするか水割りにするかお客様に聞いたりもした)、毎週結構な収入を得られるので、非常にありがたかった。
そしてある程度、仕事に慣れてきたころ、店長から「二階にヘルプに行ってほしい」と頼まれた。そのお店は、二階にお座敷があり、宴会などでよく利用されていた。わたしは基本的に一階で給仕をしていたが、その日店長に言われて初めて二階へ上がった。
「あなたが××さん?よろしくねぇ」そこにいたのは、かなり高齢の女性だった。背中がすっかり曲がっており、顔には無数の深い皺が刻まれていた。「アイさん」と呼ばれるその人は、二階のボス的な存在で、わからないことがあればアイさんに聞くというのが決まりだった。
「ねえ、ちょっと、こっちにおいで」。団体客が帰り、次の予約まで少し時間があったある日、アイさんはわたしを空いている座敷に通した。そこには、さっきお客さんが食べていた美味しそうな料理の数々が並べられていた。「これ、厨房からもらってきたの。食べちゃいましょう」とアイさんは、いたずらっぽく笑った。
わたしの心は踊った。いつも、指をくわえて見ているだけだったから。初めて口にする店の味は驚くほどおいしく、わたしは衝撃を受けた。これを平気で食べ残すような人々が存在するという事実にも。
板長と話していたら、鬼の形相で「なにしてるんだいっ」と怒鳴られた
その日から、アイさんは宴会と宴会の間にこっそりわたしを呼び出し、余った料理をおすそ分けしてくれた。アイさんは、学校のこと、家族のこと、とにかくたくさん質問をしてきた。わたしに父がいないと知ると「たくさん食べなさい」とご飯をすすめてきた。さらに「お腹いっぱいなので」と断ると、ラップに包んで持ち帰らせてくれた。アイさんは、わたしを特別気にかけてくれていたように思う。わたしはアイさんにとって、孫のような存在なのかな、なんて。
その日も、わたしは二階で宴会の給仕をしていた。比較的少人数の団体だったため、忙しさに欠け、わたしは厨房で手持ちぶさただった。アイさんは、お客さんに呼ばれて、お座敷へ行っていた。ふと、厨房にいる板長と目があった。板長は、文字通り"寡黙な料理人”といったタイプで、わたしは一度も話したことがなかった。
「あの」わたしは、思わず板長に声をかけた。「昨日の鴨の焼き物、すっごくおいしくて感動しました!」と、どうしても伝えたかった。毎日素晴らしい料理に、舌鼓をうっているだけなのがもどかしかったから。
すると、板長はどこか照れくさそうに、わずかに笑みを浮かべながら「あんた、若いくせに随分渋好みだな」と返してくれた。わたしの心からの感想が、きちんと伝わったような気がして、嬉しさがこみ上げた。
「なにしてるんだいっ」突然、響いた鋭い声に驚いて振り返ると、アイさんが鬼の形相で立っていた。見たことのない、厳しい表情と視線。「そんなことしていたらね、お姉さま方に嫌われるよ」。「そんなこと」というのが、“板長と話すこと”だというのを理解するまでに、少々の時間を要した。
アイさんは攻撃の手を止めない。「あんたは、お二階に上げたらだめだね。すぐ調子に乗ってしまう。そんなことしてたらね、店長に言って一階に下ろしてもらうよ」。そのときのわたしは、きっとアイさんはたまたま機嫌が悪いのだと思い、「えー、嫌ですよー。わたしアイさんと一緒がいいですもん」と必死で笑顔を作った。しかし、アイさんは「こりゃあだめだね。やっぱり若い子は」と、一日中そんな調子だった。
激怒していたアイさんからは、紛れもない「女のにおい」がした
なぜ板長と話したくらいで(しかも厳密には、一言二言交わしただけだ)、こんなにも責められるのかわからなかった。あのとき、激怒していたアイさんからは、紛れもない“女”のにおいがした。強烈な女性性だった。アイさんが板長に好意を持っているとかそんなことではなくて、わたしが思うよりずっとアイさんは、女の醜い部分を失っていなかったということだ。
年齢とともに人は穏やかに、何事にも動じなくなってくると勝手に考えていたが、アイさんはきっと、この店で働き始めたときからずっと、激しいくらいの誇りと威厳を、着物の奥深くに忍ばせてきたのだと思う。同じ女であるわたしには、わかるような気がした。
わたしは、次の日から店に行くことができなかった。体調が悪いから、テストが近いからと様々な言い訳を続けたのち、ついにバイト自体を辞めてしまった。理不尽な女。
しかし、いつかまた、あの店を訪れてみたいと思う。めいっぱいおしゃれをして、ブランド物のバッグを持って、板長の作った最高の料理をひとつひとつ味わいたいと、ひそかに思っている。