「女は愛嬌」という言葉が嫌いだ。母によく言われて育ってきた。

「女は愛嬌」という考えに反発するように、母の前で笑顔になるのが嫌になってしまった

 私が思春期の頃などにむすっとした態度を取ってとっていたから、そのように言われたのだと思う。母自身が愛嬌のおかげで得をした経験が多かったから、がさつで愛嬌とは程遠い娘に教えたかったのかもしれない。私にはその言葉が苦痛で仕方なかった。

 私は感情が顔に出るタイプで、よく母に指摘されていた。人といるときに楽しくない顔をしていると怒られた。楽しいときには笑って、楽しくないときは笑わないことの何がいけないのだろうと思った。

 表情を監視されているようで、母の前で笑顔になるのがだんだんと嫌になっていった。

 母が写真を撮るときに、みんなの前で私に「恐いから、もっと笑顔」と言うことが度々あり、辛くて表情が凍りついた。「笑顔で」と言われれば言われるほど、笑えなくなってしまい、私は写真が嫌いになった。  

 「女は愛嬌」という考えに反発するように、母の前で笑顔になるのが嫌になってしまった。

 だんだんと大人になるにつれ、私にそれを求めても無駄だと諦めがついたのか、その言葉は言われなくなっていき、楽になった。

「笑顔で頷いてたら大丈夫だから。女は愛嬌よ」またこの言葉かと頭を抱えた。

 しかし最近、またその言葉に触れることがあった。

 母の知り合いが営んでいるスナックで人手が欲しいから一度見に来てよと誘われ、向いていないのは分かりきっていたが、1%の出来るかもしれないという思いと、好奇心で客として訪れた時のことだ。母と、母の友人と私の3人で行った。

 お店で女の子が男性の接客していたので、会話に聞き耳を立てていると、その男性は不快な下ネタを延々と話していた。相手の気持ちを全く考えず、自分の発したい言葉だけを発していた。女の子はカウンター越しで笑顔だった。私だけが不快だと感じたのではなく、母とその友達も同じ気持ちだった。

 スナックのママは私に「笑顔で頷いてたら大丈夫だから。女は愛嬌よ」と言った。そして男性がどれほどの肩書きの持ち主かを説明した。隣で母は頷いていた。

 またこの言葉かと頭を抱えてしまった。

 この考えの人がいったいどのくらい存在するのだろうとやるせなくなった。私は反論したかったが、そうするとママのこれまでの生き方を否定するようで思いとどまり、ひとり悶々とした気持ちで家に帰った。

愛嬌は強制するものではなく、自然と周りが感じ取るもの。男も女も愛嬌だ

 「女は愛嬌」という言葉で、救われた人もいるだろうが、救われない人もいる。女が全員あてはまる言葉ではない。

 スナックで働いている女性を否定する気持ちは全く無く、楽しくて幸せな瞬間が幾度となくあるだろうし、嫌な客がいてもお金のためと笑顔で割り切れると良いが、そうはいかない根深いモノが私の中にはある。向いてる人と向いてない人がいる。

 そもそも、愛嬌というのは、その人の柔らかさが自然と出て、周りが愛しいと感じる事ではないのだろうか。しかし、私がこの言葉に接してきた場面は常々、簡単に言えば「不快なときも笑顔でいる」という意味だった。

 前者の意味で愛嬌という言葉を使うなら、男女関係なく愛嬌があったほうがいい。女だからという理由で愛嬌を求めるの浅はかだ。

 「女は愛嬌」という言葉の根底には男性より女性が弱いという昔ながらの考えをどうしても感じてしまうし、女はかわいくあるべきだという風にも聞こえる。

 男も女も愛嬌だ。

 愛嬌は強制するものではなく、自然と周りが感じ取るもので、誰もが毎日笑顔で柔らかくいるに越したことは無い。誰も苦しめない前向きな意味で、愛嬌という言葉を使う世の中になって欲しいと切に思う。