「もったいない」その言葉はいったい誰の為に発せられているのだろうか。

大学3年次の夏休み。就職活動を始めた私を最初に待ち受けていたのは、エントリーシートを書くことでも自己分析をすることでもなく、「黒染め」である。
この時点で就活からフェードアウトしたい気持ちはやまやまだったが、夢があったのでこのくらい何ともないと思い受け入れた。
私は「記者」になりたかった。大学で国際関係を学ぶ中で記者という存在の重要性に気が付き、現場の空気感、臨場感や人の感情を伝える記者に憧れた。頭の片隅では厳しいと分かっていても、どこかで希望を持っていた。
しかし、現実は甘くない。今思うと、覚悟が足りなかっただろうし、努力も足りていたとは思えないから、相当の結果であったと思う。
そんなこんなで、最終的に決めたのは事務職。就職活動を始めた時はオフィスで座ってるなんて絶対嫌だと思っていたが、縁があったのと自分の根本にある思いは、事務職でも生かせるだろうと十分に納得して内定承諾書を提出した。

内定報告の後に口にされる「もったいない」は誰の為?

家族は私が決めた道に何もいうことなく、就職が決まった事に安堵していた。
就職先が決まってから、アルバイト先や周囲に報告すると、第一声は「よかったね」「おめでとう」と言ってくれる。
それなのにその後、何かにつけて「もったいない」と言われる事が多かった。
留学行って英語話せるのにもったいない。大学行ったのにもったいない。もっと他の事出来そうなのにもったいない。
何気なく発せられたその言葉への返し方が分からず、自分自身の決断が否定されているように感じモヤモヤした。

果たしてこれはいったい誰の為の「もったいない」なのだろうか。私の為なのだろうか。

これら全てに共通することではあるが、私は就職するために大学進学を選んだわけでも、留学に行った訳でもない。
勉強があまり得意では無かったけれど英語が好きで、国際関係を学びたいという純粋な意思で大学に行った。大学で英語を話す同級生に刺激を受け、留学を決意した。最初はほとんど英語が話せ無かったので、ペラペラにはなれなかったけれど、自分にしかできない経験が出来たと思っている。

大学は就職予備校じゃない。語学もコミュニケーションを取るために習得

私にとって大学は学び自らの視野を広げる場所であって、就職予備校では無かった。英語も就職するためではなく、異文化を学び受け入れ、人とコミュニケーションを取るために習得した。

留学である程度英語が使えるようになり、帰国後はアルバイト先で英語対応を任された。アルバイト先の人からしたら、留学までしてせっかく英語が話せるのに事務職で英語を活かせないのはもったいないと思ったのかもしれない。高校生の時から働いていたから、成長した私をみてくれ、親心みたいなのがあったのかもしれない。
それでも、その無責任な「もったいない」を受け入れることはできなかった。

もったいないと言った人は私がどんな思いで就活していたか知らない

第一、就活で最初の希望職種につける人なんて限られているだろうし、当初検討もしていなかった職種につくことだって多い。それでも、最初は夢を追いかけ、無謀な挑戦だったとしてもその事実は変わらない。私もそのうちの一人で無知ながらも必死に戦った。
結果は惨敗だったし、作文や文章を書くのが好きだったのに、就活後は自分の言葉が世の中から否定させているような気がして怖くなり、今まで自分の主張や論争を素直に書いていた大学のレポートも書けなかった。
私にもったいないと言ったその人は、私がどんな思いで就活をしていたかなんて知るはずもないけれど、少しは想像して欲しかったと思う。

今は、4月から事務職員として未知の世界で働くことに不安もあるが、今まで知らなかった世界が広がっていると思うと少しワクワクする。大学での経験、留学経験、アルバイトの経験、これまで生きてきた経験が全て生かされると確信しているし、無駄な事なんて何ひとつ無かったと思う。
だから、「もったいない」事なんて何もないし、自分の生き方を自分で決められる環境に感謝し、社会人になっても貪欲に挑戦し自分にしかできない経験をしたい。