私は社会では『天然』と言われがちな人間である。私という人間は、小さい頃からうっかりミスやドジを踏みやすかった。大学を卒業してすぐに社会人になったが、私は『天然』と呼ばれることでその大きな弊害を乗り越えることができていた。
一人だけ研修場所を間違えても、何となく周りからずれたことを言ってしまっても、『天然』と言われることでどうにか乗り越えてきたのだった。

匿名であるが故に、何を呟いても許されるような気分になれた

けれど私の中には、段々と塵のように積もった感情があり、それは日々社会で生活をするごとにうず高く積み上げられていった。その塵は、人から一生懸命やっても小馬鹿にされたり、自分が周りと違うと感じることによる不安が募ったりすることで、心の奥に降り積もっていったものだった。

そうして現実世界に嫌気がさした私は、二次元の世界に憧れていた。もとからあった二次元への憧れや慕情が強くなり、そういう『二次元を創る世界』に飛び込んでみたくなっていった。それでも、結局それすらも怖くなってやめた今となっては、廃人のようなもので、コロナで余計に自分が腐っていくような感覚になっている。

そんな私をつないでいるのが、SNSやブログの存在である。昔から他人に嫌われるのが怖かった私だが、ネット上の世界では自分の本音や言いたいことをぶちまけても、誰からも文句を言われなかった。
社会ではどうしても、『天然』という皮をかぶり数々の奇行を、頭を下げて謝ってきた私も、ネット上では包み隠さず本音を言える。匿名であるが故に、何を呟いても許されるような、そんな気分になれた。

ネット上の私も、社会での私も、どちらも本当の私ではないけれど

私はネット上では、『気遣いができる人』『優しい人』『文章力がある人』と評されることが多かった。それはとても嬉しいことで、特に文章力があると褒められることが、私の最も嬉しいことだった。

けれど本当の私は、そんなに気遣いはできないし優しくもない。社会では、自分のことでいつも精一杯。誰かを気遣う余裕なんてあまりなかった。
それでも、ネットの世界は主に文章で交流する世界だ。私が大好きな文章を自らの手で穢したくない。
だから私は、文章上ではなるべくきれいな言葉を使うようにしているのだろうと思う。ときどき口汚く罵りたくなっても、ぐっと我慢して丁寧な言葉に置き換える。

ネットでの私も、社会での私も、どちらも本当の私ではないことは、薄々気づいている。それでも、家での私だって、きっと本当の私とは言えないし、本当の私というものは、そもそも存在しないに違いない。

流れてくるタイムラインを眺めながら、私だけではないのだと思える

私は私だ。どの世界にいる私も私であって、どれかが本当ということはない。ただ安心して過ごせる場所が一つでも多くあれば、人は現実世界で生きていられる。そういう居場所を作ることができるツールとして、新しくネットが仲間入りしたにすぎない。

私はネット上では、なるべく嘘偽りのない本音を書くようにしている。すべてを書いているわけではないけれど、自分の中の汚い感情をオブラートのような薄い膜で包んで書き残すこともある。

社会では言えない本音も、ネット上には書ける。怒りも憎しみも悲しみも、すべてを覆い隠すことなく、ネット上に少しずつ吐き出して、溶かして薄めていく作業をする。そういう愚痴や悪口は社会では好まれないが、ネット上であればむしろ歓迎される。
『会社燃えればいいのに』
といった悪口も、冗談として受け入れられる。

私は皆の愚痴も不満も、寧ろ見たいと思っている。流れてくるタイムラインを眺めながら、私だけではないのだと思えるから。
緩くネットを通してつながる同志が、健やかな日々を過ごせることを願いながら、今日も私は言葉を紡ぎ、ネットという海に流していく。