わたしは、自分の中身(本心)が見られることがすごく怖い、恥ずかしい、見られたくないと思う。だから、隠して生きているつもりである。
このご時世、会話の中でよく聞かれる。「自粛期間は、お家で何をやっているの?」と。
わたしは、この質問が嫌いである。いつも曖昧に、「特に何もしていないですよ。」と答えてしまう。

「ありのままの自分を受け入れてくれる人はいる」。本当に存在するのだろうか

自分のことを、誰かに知られることが怖いはずなのに、時々、自分のことをすごく話してしまうときがある。本当のことに、少し嘘を交えて。嘘のことを伝えるくらいなら、話すべきではなかった、なぜ話してしまったのだろう、とよく後悔をする。

わたしは、かまってほしいのか?本心は、誰かに自分のことを知ってもらいたいのかな。
嘘を交えて話すということは、よく見られたいのかな。わたしは、特別!と思いたいのかな。さまざまなことが思い浮かぶけれど、どれもなりたくない自分像である。

「ありのままの自分を受け入れてくれる人はいる」この言葉はよく聞く。
しかし、本当に存在するのだろうか、と疑問に思う。受け入れてくれているように見えて、実際は我慢しているだけではないのか。

わたしには、2015年からずっと変わらない憧れの人がいる。一度姿を消してしまい、その時はどうしたらいいのか分からなかった。そのことを言い訳にして、なにもかもやる気を出さなかった。
ここから、憧れの人の話が続くので、その憧れの人を「あこさん(仮名)」と名付けよう。

憧れの人「あこさん」ならどうするのかな。何かに迷ったとき、私はあこさんを想像する

わたしは、あこさんのようになりたいと、何度も思った。

しかし、なれるわけない、とも同時に思った。
だったら、少しでも近づこうと髪型や仕草をまねした。あこさんが好きだと言っている本を読んだり、ラジオを聴いたり、洋楽も得意ではなかったけれど聴くようになった。そのおかげで、趣味が広がった。

何かに迷ったときにはあこさんはどのような考え、言動をするのかなと考えた。身近な話で言うと、コンビニエンスストアでプリンかシュークリームのどちらを購入するか悩んだとき、あこさんなら今どっちにするかな、という感じである。わたしのただの想像でしかないが、すごく助けられていた。

進学して、あこさんに似ていると何度か言われたときはすごくうれしかった。
一度、姿を消してしまったときは、たくさん泣いたし、あこさんのありとあらゆる噂が流れた。真実かウソか分からない噂を見ることがとてもつらかった。本当のことは分からないけれど、それでも私はあこさんが好きであることに変わりなかった。

どんなことをしてもその人のことが好きであることに変わりなかった。寂しい時、勇気が欲しいときには、昔の写真を見ていた。

「憧れのひとになりきる」ことが”わたしの見せ方”。ありのままのわたしも表現したい

もう一つ、あこさんに助けられていたことがある。それは、自分のことを話す時である。
わたしは、人の前で話すことが苦手だ。日常会話は問題ないが、発表になるととても緊張する。発表中「わたしは今、皆にはどう見えているのかな」「どう思われているのかな」と思うと、怖くてたまらない。高校生の頃は、発表中に泣き出してしまったこともある。

だからわたしは、あこさんになりきることにした。
発表中、わたしは今あこさんであり、わたしの発表内容をあこさんが発表していると思うと、不思議と楽になった。だからわたしの、わたしの見せ方は「憧れのひとになりきる」ということだと思う。

ただ、それと同時に、わたしとは何だろうとも思う。この疑問は、永遠の課題である。
今このエッセイを書いているときも、自分はどう思われているのだろうと考えている。
しかし、今回は本当の私、ありのままのわたしを表現してみたいと思った。