ありのままの自分でいるのが1番良い。
そう言われることがとても多い。素が1番だと。
だけど、私はそう思わない。正確には、ずっと素でいるのが良いとは思えない。相手を自分で選ぶべきだと思うのだ。

八方美人、媚びている、あざとい…。ありのままの私でいるだけなのに

私は、素の自分を出すと必ず言われる言葉がある。
「あざとい」「ぶりっ子」「媚びている」。
声質なのか、話し方なのか、はたまた外見なのか…?あざといキャラで人気の芸能人はたくさんいるけど、それは時代のアイコンだから許される。身近にいる女の子があざとく見えたらどう思うだろうか。正直なところ、大体の人が疎ましく思うのではないだろうか。

私自身が「よし、あざとく見られるようにしよう!」としているなら、問題は無い。それは一種の魅せ方で、正解であり、素敵だとも思う。
だけど、ただ楽しい、嬉しい、悲しい、寂しい。色んな感情をありのまま出しているだけだったら?単純に、純粋に、わたしのままに。あざといという言葉で片付けられるのは辛い。

他人から自分がどう見られるかはよく分かっている。実際、わたしは以前の職場でたくさん陰口を叩かれた。気を利かせたつもりが八方美人、笑っただけで媚びている、ピンクのワンピースを着て出社すればあざとい…。
多くの友人も似たようなものだった。普段仲良くしていても、男性、恋愛が絡んでくる場ではころりと変わってしまう。私はその度に落ち込んだ。
「私が悪いんだ…」
「誰にも会いたくない。」
「どう変われば正解なんだろう?」

私を勝手に嫌う2割の人に、いちいち落ち込んでなんかいられない

人間関係の262の法則を知っているだろうか。
簡単に例えると、あるグループに属する時、私の性格や外見に関係なく、その中の2割は私のことを嫌い、6割は好き嫌いが分かれ、2割は好きになってくれるというものだ。この場合の好き嫌いは恋愛ではない。誰しも何となく嫌い、好きだと感じる相手がいると思う。その比率がだいたい2:6:2ということだ。

つまり、私がどんなに努力をしても、勝手に嫌う人はいる訳で。そんな時に、昔の私のようにいちいち落ち込んでいたらメンタルが保てない。
私を好きになってくれる2割は大丈夫。6割の、より多くをプラスに動かせるか。そこが健やかな気持ちで毎日を過ごせるか否かの重要なポイントになる。

全力でありのままに生きたい人はそうすればいい。きっと幸せだと思う。
だけど、私にとっては、平らな道を歩くことが大切だ。わたしの心がとても大切だ。わたしの心は他人に簡単に傷つけられていいものじゃない。
だから、私は纏う。他人に見られたい私を。

鎧でもドレスでも、纏ったっていいじゃない。私が私でいるために

私は「より正解な方」を選ぶ。
ピンクやパープルなんかより、寒色系や白い服を多く身につける。スカートよりもパンツ。スカートを着るならできる限り長い丈。可愛いよりも綺麗にシンプルに。
何かに気がついたら、親切よりも「丁寧」を意識する。感じのいい、相手に合った言葉を、行動を選択していく。笑いたい時も楽しむ時も皆と同じくらいの温度感でいい。マイナスな感情はできるだけ見せないようにする。

自分の見せ方は案外簡単に選べる。今や私は、「柔らかい雰囲気の温厚な人」止まりで安全圏だ。場の中心に進み出ることはないけど、憩いの場所を手に入れた。自分を偽っている!と気に病む必要はないし、息苦しくもない。相手によって、見せる量と距離感を調節しているだけだから。私の芯は簡単には揺るがない。

だけど、一つだけ。
結局素の自分も大切にするべきなんだ。全力の素の自分を見せるのは、大切な人、大切にしたい人。好きな色の服も、きらきらしたメイクも、全力の笑顔も。譲れない考えなんかも。見せるのは、私が見て欲しいと思える人。それだけで私はとても満ち足りた気持ちになれる。

纏ったっていいじゃないか。鎧でもドレスでも、なんだって。私が私でいるために。