「私の人生とか思想とかが、誰のためになるんだろう」と思ってしまって、自分のことをうまく人に話せない。けれど自分以外の話は楽しくできるから、察しの良い友人には「いつも私のことだけ喋ってて大丈夫?」と聞かれる。

「なんで大事なことを話さないの」。自分を知ってもらうのが下手な私

小学校の頃から、いじめの話も悩み事も、私の幼馴染みから親に伝わり、「なんでそんな大事なことを話さないの?」と心配された。
SNSでは、どう反応されるかとか「いいね」の数とかが怖くて、発信ができない。それに、趣味もスペシャリティもないから、自分が世の中に対して何かを発信する価値があるとも思えない。
自己肯定感が低いとかでは全くなく、むしろ自分のことは好きなんだけれども、世の中に自分のことを知ってほしいという気持ちは、一ミリも湧かない。

それでも一人になるのも寂しいから、親友や彼氏にだけは心の内を打ち明ける。
死んだ後に自分が生きた証が何も残っていないのも怖くて、遺書を書いてみたこともある。
あるいは、毎日欠かさず日記をつけたり、人間関係を考察するレポートを書いたり(計10万字程度)もした。
自分の心の底にあるものを吐き出すことに慣れていないからか、その作業をするときは毎回、大泣きしてしまう。

私はこんな感じで、自分の見せ方が、とんでもなく下手だ。

もしこうならって、つい考える。だけど、この人生に満足もしている

自己表現が苦手な人に共通することかもしれないけれど、私は昔からの空想好き、本好きでもある。
「今、自分がこの社会でこんなことをしていたら」と、いつも反実仮想してしまうし、本を読んでその世界に入り込み、主人公になりきってしまう。

一方で私は、自分の人生に満足もしている。
偏差値75の医学部に合格して、大学でも結構頑張ってきたし、メディアに取り上げられたこともある(もちろん他薦)。友達も多いし、サークルでは場を盛り上げて「コミュ力担当」と呼ばれる。自分の見せ方は下手でも、自分を人に見せないことを苦と感じずに、そして人に嫌味な感じを与えずに、良い関係を築けるのは、我ながら器用だと思う。

けれどなぜ、親しい人以外に心の内を見せなくても、こんなに器用に生きられるのか。
なぜ、自分が発信するコンテンツに自信がなくて、反実仮想をしていても、こんなに自己肯定感を保っていられるのか。

私はずっと、この生き方の芯の無さが、怖かった。
だからこれらの問いの答えを、この一年間、必死に考えていた。
たくさん本を読んで、映画やテレビを見て、ヒントを得ようとした。時には、そこに出てくる人たちと自分とを比べて「やっぱり私にはこんな個性は無い」と落ち込んだこともあった。それでもなぜか、読まずには、見ずにはいられなかった。いろんな物語に触れて空想すること自体が、楽しかったのだ。
そして、一年かかってようやく、自分が抱えていた問いの答えにたどり着いた。

自分を頑張って作ろうとしなくても、大丈夫なのかも。私

そもそも自分の芯なんて無くて、人の生き方を吸収して集め合わせて自分の芯にしていくのが、私なんだ。
見せるための自分の生き方なんて無くて、人から学んで作り上げた生き方が、私なんだ。
もしかしたら、知識欲だけは、誰にも負けないかもしれない。いろんな人の生き方や価値観を、知りたい。
そして将来、よりたくさんの人の境遇を理解して、共感できるようになりたい。趣味もスペシャリティもないなら、広く浅く何にでも手を出してみて、そのなかで人から学んでアイデンティティを作れば良い。

だから、見せられるような自分を頑張って作ろうとしなくても、大丈夫なのかも、私。
見せることや自己主張することが推奨される世の中だけれど、私は今は、私の代わりに自分を見せて主張してくれる人たちの話を、聞いて聞いて、聞きまくれば良い。
それと同時に、今の不完全な自分も、大事にしていきたいと思う。あと、自己表現が下手なくせに寂しがりだから、大切な人にはちゃんと心の内を打ち明けて、構ってもらおう。

こうして私は、自己表現が苦手な自分を、少し理解できるようになった。
冒頭にも言ったように、私のこの生き方を公開することが誰かのためになるとは思っていない。けれども、これまでは人に見せられないと思っていた自分も、それはそれで一つの良い在り方なんだと気付いたから、このエッセイに応募してみようと、思い切った。

これは、私にとって記念すべき、新しい一歩だ。