家でのキャラと、外でのキャラ。それぞれを略して“家キャラ”、“外キャラ”とすると、どうやら私は“家キャラ”と“外キャラ”の落差が激しいらしい。

家族に言わせれば私は「甘えん坊」で、友人や先生に言わせれば私は「しっかり者」なのだそうだ。

家族に言わせれば「甘えん坊」で、友人から言わせれば「しっかり者」

私には姉がいるのだが、そのことをまだ知らない友人に話すと、「むしろ妹か弟がいそうに見えた。蟻ちゃんがお姉さんなのかと思った」と驚かれることが多い。また、初対面の目上の人に「大人っぽい」「しっかりしてそう」と言われるのは、もう日常茶飯事だったりする。

でも、いつだったかその話を母や姉にしたら、大笑いされてしまった。私は家でかなりポンコツぶりを発揮してしまっているから、仕方がないといえば仕方がないのだけれど。

念のために言っておきたいのだが、私は“家”に対しても“外”に対しても、意図的に猫をかぶっているつもりは全くない。では、なぜ“家キャラ”と“外キャラ”に落差が生じるのだろうか。

「つまり家族の前では気を許しているけれど、そうじゃない人の前では気を張っているってことでしょう? それはただ単に、家族以外の人に対して無意識に壁を作ってしまっているだけなんじゃないの?」という声が聞こえてきそうだ。

事実、そうなのだと思う。私は昔から他人に何かを任せるのが苦手で、可能な限り1人で全部やろうとするタイプだった。

私は無意識に周りから「求められているであろう自分」を演じている

任せることができないのは、その人のことを信頼してないということで、ある意味失礼なのだと気付いてからは、臨機応変に人を頼るようになった。けれど、今でもやっぱり他人を頼るのは得意じゃなくて、そういうところが“壁”になって、“しっかり者”のイメージを生んでいるのかもしれなかった。

でも、それだけではないとも思う。というのも、私には家族以外にも気を許せる友人たちがいるからだ。
ただ、私は“外”の世界の友人や先生に、“甘えん坊”より“しっかり者”であることを求められている気がするのだ。逆に、“家”の世界の母や姉は、“しっかり者”ではなく“甘えん坊”な私を求めている気がする。どちらも、あくまで“気がする”だけだけれど。

とにかく、私は無意識に周りから求められているであろう自分を演じてしまっているのだと思う。まるで、カメレオンみたいに。

だから結局、私が家族以外の人から“しっかり者”に見られるのは、私がそのように見せているからで、それはすべて私の責任なのだ。

それでも時々、自分が本当はポンコツなのだということをわかってくれる家族が、恋しくなる。友人たちにも、自分のポンコツぶりをわかってほしいと思ってしまうときがある。そういう時、私ってものすごく自分勝手な生き物だなぁ、と少し呆れてしまう。

カメレオンのように「変化する顔」も、自分であることに変わりはない

けれど、対象が変われば見せる顔も変わってくるのは、むしろ当然のことかもしれない。最近になって、そんなことを考え始めた。これまで“家キャラ”と“外キャラ”の2つに分けて話してきたけれど、“家キャラ”も“外キャラ”もそれぞれ種類が1つとは限らない。

親の前で見せる顔、祖父母の前で見せる顔、兄弟の前で見せる顔、久々に会う親戚の前で見せる顔。親友の前で見せる顔、クラスメイトや同僚の前で見せる顔、先輩や上司の前で見せる顔、後輩や部下の前で見せる顔、先生の前で見せる顔。それぞれ違うのは当たり前で、むしろ全部同じなはずがない。

でも、そのどの顔も、自分であることに変わりはない。カメレオンだろうと、結局どんな自分も“自分”なんだなって思ったら、すごく楽になった。

昔、大切な人が自分以外に見せている顔があるんじゃないか、それがその人の本当の姿なんじゃないか、と不安になることがあった。でも、その人が自分に見せてくれている顔を信じたいし、信じるしかないと思っている。

だから、私も私に関わってくれるすべての人にこう言いたい。「私があなたに見せている顔を、心置きなく信じていいよ」と。