私には女兄弟しかいない。母も、そのまた母も、女兄弟の長女である。
だからなのかもしれない。皆私の態度が女性らしくないと、それをたしなめてくる。
しかし私はこの女性らしさというものと、女性であることの境目がいつも難しいと感じる。
体や心の話ではなく、振る舞いや仕草、見た目に女性らしさを表現するかどうかは、本人が決めても良いのではないかと、ずっと幼い時から思っていた。
悪気がないと分かっていても「女性なのだから」に不自由さを感じた
小学校の頃、1リットルのペットボトルを買って口をつけて飲んだ時、女の子なのにはしたない、コップを使いなさいと母に怒られた。ショートヘアにしたいと言ったら、父に髪が長い方が可愛いぞと言われた。
おそらくどちらも、悪気があって言った言葉ではない。でも私にとっては、その自由のなさが恐ろしかった。大人になった今も、よくよくこの自由のなさに辟易する。
女性なのだから、そこまで根詰めて働かなくても大丈夫だよ、と夫は言った。
私が落ち込んだ時に励ますために言った言葉だが、考えてみるとこの「女性なのだから」にも、社会的な女性の在り方を決定づけられているような気配を感じる。
今は、昔と大きく変わって、以前ほど男女で差別があるとは思っていない。勿論、社会の片隅に未だはびこっているところがあるのも肌で感じて知ってはいるが、昔に比べると随分良さそうだ。
女性がやるべきこととそうではないことの境界線がはっきりしている
例えばニュースを見ていて、女性議員の数は増えただろうか。
地方選挙のポスターに、女性は何人立候補しただろうか。
会社を見ると、幹部に女性は何人いるだろうか。
既婚男性が帰宅して食べるご飯は、果たしてどちらが作っているのだろうか。
はたまた、幼稚園の送り迎えや、子供のお弁当作りをしている人に、女性以外は何人いるだろうか。
いたるところで女性の姿を見ると、女性がやるべきこととやるべきでないことが、はっきり線引きされているように感じる。しかしこれらの現象は私にとっては少し遠く、大きすぎる現象だ。
まずは身近な人に「女性らしさ」の押しつけと享受を自覚してほしい
だからまず、遠くからではなく身近な人に言いたい。
女性でも、男性でも、ペットボトルの直飲みは行儀が悪いというなら、そう言えば良い。女性なのだからという言葉はいらない。
女性でも、髪が短い人は沢山いる。可愛くなりたくて髪を切るわけではないときもある。価値観を押し付けるのはよくない。
根詰めて働かなくても良い、確かにそうかもしれない。でも私は、まだ頑張りたい。やめたくない。自分の力を試したいし、昇進だって出世だってしてみたい。それを、ひとえに頑張ることをやめたら良いなどと言わないでほしい。
女性らしくあらねばならないという、押しつけをやめよ。
そして女性も、それを信じるのをやめよ。
自分らしく生きるために、引かれた境界線を少しずつグレーにしていく
女性である前に個人なのだから、何を信じ、どう生きるかは自分で決めて良い。どう振る舞い、どう見せるかは自分だけが決めて良い。それを犯そうとする者に対しては、意見して良い。勇気をもって良い。虐げられる必要はない。一人が難しければ、二人でも三人でも、仲間を見つけよ。周りの人と助け合って戦おう。女性に引かれた境界線を少しずつグレーにしていこう。
私たちは、決して弱くない。自分らしくあることを諦めないで。自分だけが、自分を、生きられるのだから。