「あの人がこわい」と私はずっと、母にこの一言が言いたかった。けれど、今も言えていない。母は“あの人”をいい人だと思っているから、私の恐怖心を否定されそうで、言えなかった。
あの人は、近所のガソリンスタンドの男性従業員で、私が幼稚園の頃から働いている。自宅から駅までの道にそのスタンドはあって、物心ついた時から毎日必ず一度は前を通っていた。
幼稚園の頃から、近所のガソリンスタンドで働く男性と挨拶をしていた
幼い私は、母と手を繋いでそこを通過するたびに、あの人に挨拶をしていた。「こんにちは」たったそれだけ、一言だけ、顔見知りのご近所さんへの一般的な挨拶。こちらから声をかけることもあれば、お客さんがいない時に、向こうから話しかけてくることもあった。
小学校に入学すると、そのスタンドは通学路の一部になって、一人で歩く私に、あの人は毎回挨拶した。それは「こんにちは」や「おはようございます」ではなくて、「いってらっしゃい」だった。
電車通学をしていた私は、一人ぼっちの長い道の途中で、誰かに声をかけられることが嬉しかったのだと思う。元気いっぱい、行きも帰りも挨拶を返すようにしていた。道徳の教科書にも「地域の人にはこんにちはを言いましょう」と書いてあったから、挨拶することは絶対だと信じこんでいたのかもしれない。
中学生になっても、スタンドは通学路のままで、相変わらず私は挨拶していた。この頃になると、信号を待つ私に彼から話しかけてくるようになっていた。幼稚園から小学校までの9年間挨拶をしていたことで、自然と会話するようになっていた。
そして「いってらっしゃい」が「気をつけてね」になり、「おかえりなさい」もセットになって、修学旅行のために大荷物の時は、「どこかへ行くの、旅行?」と尋ねられた。彼に声をかけられたら、何でも返す、習慣として染み付いていたから、丁寧に全て答えた。
母と一緒に歩いていても必ず挨拶されていたし、にこやかに挨拶する母の姿からも、そうすることが当たり前なのだと感じていた。次第に、スタンドから信号を渡り切った道の向こうを歩いていても、大声で挨拶されるようになっていた。手を振られることもあった。12年で、それらは全て“普通”のことになっていた。
高校入学のとき、あの人からお祝いの品を貰い「こわい」と感じた
そんな私の中の“普通”の意識が壊れたのは、中学を卒業して高校に入学したときのことだった。卒業間近のある日、あの人は私にこう言った。
「次、何年生?」
「もうすぐ高校生になります」と私は笑顔で答えたと思う。
「早いねー、おめでとう」
「ありがとうございます」
たったそれだけ、ただの世間話のつもりで、あの人と話した内容なんて5分後には忘れて帰宅していた。けれど、あの人はその何気ない一言を完璧に覚えていた。
1ヶ月後、いつもの電車がギリギリ乗れない時間で、私はダッシュで駅に向かっていた。信号に突っ込もうとする私を、あの人は見つけ「ちょっと待って!」と引き止めた。そして、小さな紙袋を手渡した。「入学おめでとう」と言って。
焦っていた私は、何が何だかわからないまま受け取り、とにかくお礼を言った。「すみません、いただいてしまって、ありがとうございます」そして、一つお辞儀をして、駅に向かった。
私が冷静になったのは、学校に着いてからだった。もらった紙袋の中身は、高級そうな箱入りのボールペンだった。「お礼をしなくては」と思うと同時に、ふと、もやもやした感情が芽生えた。「あんな軽い世間話をそんなにしっかり覚えていたんだ」「物をもらってしまった」心の中でざわざわが止まらなかった。
形として、礼儀としての挨拶をしていただけのつもりだったのに、向こうが何だか、それ以上の行動をとったような気がして、ボーダーを踏み越えられそうな気がして、こわいと思ってしまった。
善意かもしれないけど、人よっては「こわい」と感じる場合もある
初めて、あの人の存在をこわいと感じた。生理的な気持ち悪さで、吐き出しそうだった。そして、そう感じてしまったことへの罪悪感にも押しつぶされそうだった。「娘を見守ってくれるいい人」と母が思っているあの人に、恐怖を感じるのは、いけないことのような気がした。
あの人は善意でプレゼントをくれたのかも、それをまるで“未成年に手をかけようとする、悪い大人”のように扱うなんて、私の自意識過剰だと思われそうで、「こわい、気持ち悪い」なんて言えなかった。
それから、なるべくスタンドの前は通らないようにした。どうしても恐怖心が勝って、通れなかった。そんな自分を責める声も心の中から聞こえてきて、不快感と不安でいっぱいだった。
けれど20歳を目前とした今、あの恐怖感は16歳の私の本能だったと思えるようになった。ふと友人たちにその話をしたときに、「え、ペンなんてもらったの?道向こうから声かけてくるの?」とギョッとした反応をされたことで、大人の男性にそこまで踏み込まれて「こわい」と思うのは、自意識過剰じゃないのだと、そんな自分を許せるようになった。
相手に他意があったかどうかは別として、私が恐怖を感じたのなら、その行動が“私を不快にさせるもの”であったことに違いはない。だから、私がその感情への罪悪感に駆られる必要はないのかも、と今は思っている。
あと少ししたら、母にも伝えてみたい。私ずっとこわくて、気持ち悪かったの。