「生きるのに疲れた、醤油を入れる魚の形をした容器になりたい」このツイートを受け流していなければ。

この出来事は、私にとっての一生の後悔であり、私の生き方を変えた。私に関わる人よ、どうか幸せでいてくれ。

友人が多くて、語彙力がある彼女は、私の「憧れの存在」だった

私には、憧れていた友人がいた。彼女は本が好きで、語彙力の宝庫みたいな人物だった。友人の多いその子にとっては、私はただの同級生の一人というポジションだったと思う。それでも、私にとっては追いつくべきカッコいいと思える人だった。

浪人期に予備校でAO入試を受けるため、二人でグループディスカッションの練習を行っていた。インドの階層制度にLGBT問題。銃所持の賛否、平和学習について。様々な社会問題について彼女と語り合った。一つ一つの問題に対し、答えのない解決方法を見出す。1ヶ月程度の時間だったが、私にとって何より楽しい時間で、人生で一番有意義な勉強の時間だった。

お互い無事、志望校への合格を掴んだ。それぞれ夢の大学生活への道を歩み出した。私は東京上京後も、講演会やマイノリティのイベントに参加しては、その子とメッセージを通じて情報交換をした。

「相談したいことがあるから、今度時間がある時電話しようさ」と私の送ったメッセージに、「テスト終わったら、また連絡するよね」というその子からの返信が返ってきた。

その会話が彼女と私の最後の会話だった。

彼女のSNSに投稿される「ネガティブな言葉」をスルーしてしまった

テスト期間が終わっても連絡は来なかった。すると、3月の終わり頃、彼女のツイッターの投稿を読むと、何だか少し様子がおかしいと感じた。

「お金がなくてごめんねと話す両親に本当は私大に行きたいと言えなかった」「生きるの向いてない」彼女の投稿にはネガティブな言葉が乱立し、投稿されては次の日には消されていた。病む時期なんだろうな、けど電話する約束スルーされちゃってるしな。気にはなってはいたものの、連絡を取る気にはなれなかった。

4月の中旬、地元に残る友人からの一本の電話で泣き崩れた。彼女が亡くなった。

SNSは、人との距離を近くする最適なツールだ。近況を簡単に報告出来る。投稿を眺めるだけで、実際に会う時「久々に会う感じがしないね」とよく友人と話す。全国各地にチリチリバラバラになってしまった私の友人たちは、どんな暮らしをしているのか、どんな人に囲まれて生活をしているのか。その様子を垣間見ては安心できる。

一方、私は彼女のツイッターを通じたSOSに手を伸ばせなかった。手を伸ばして何かが変わったのかはわからないけど、それでも伸ばせばよかった。この一生の後悔は、永遠と私の中で残るのであろう。

友人がSNSに投稿する「SOS」を絶対に見落としてはならない

彼女の一件から、友人らがSNSに投稿する「落ち込んだ」「へこんだ」「辛かった」という内容の投稿を見るたび、連絡を入れる。ウザいと思われるかもしれない。それでも、もしそこで本当に助けて欲しいと思っている人が紛れ込んでいるのなら。

誰もが一番簡単に助けてのサインを出せるツールが、SNSであるのではないだろうか。商品を売り出す手段、誹謗中傷、見栄を張るための場所。現在では、SNSは様々な用途が展開されている。しかし、私はSNSの本質的な意義は、お節介をする場ではないかと思うのだ。

リモートワークに緊急事態宣言。一人家に閉じこもる時間が増え、他人と関わる機会の減る人は多いはずだ。また、コロナ禍になり、自分で命を絶ってしまう女性が多いというニュースも流れる。

この子はよくこういう投稿しがちだからといって、見過ごしてはいないだろうか。友人のSOSに気づけているだろうか。今一度、考えてみて欲しい。物理的に寄り添えなくても、助けられる。それがSNSだ。