この前、高校時代の男友達と近所のショッピングモールで久々に再会した。
私は我が子を乗せたベビーカーを押す母親の姿で、彼は奥さんと子供と三人、凛々しい一家の大黒柱の顔をしていた。
昔から友達以上なことは何一つない潔い関係で、今ももちろんそうだが、久しぶりに会って会話が弾んだのは素直に楽しかった。
別れ際、彼が一言言った。
「母親になっても昔から全然変わらず、話しやすかった。今日は会えて良かったよ」
その言葉に深い意味が込められていないことは、重々承知している。
しかし、最近、自分の存在意義が分からなくなることが多かったため、彼のその一言は「ここにいてもいいんだよ」と自分を認めてくれた気がして嬉しかった。
私は空気なの?子どもしか見えていない大人たち
先日、買い物に訪れた近所のスーパーで突然、お祖母さんに話しかけられた。
「あら~、寝てるのね。可愛いわねぇ」
それは私に対してではなく、抱っこ紐で担いでいる我が子に対する言葉だとすぐに気づいた。
コロナ禍でソーシャルディスタンスが呼びかけられている中、お祖母さんは我が子の頭を撫で回し、キスまでお見舞いしてくれそうになったから、さすがに後退りして身を守った。
あまりに咄嗟のことで不快感が湧く暇もなく、後からじわじわと先ほどの出来事について思うことが再燃してきたのだが、一番自分の中で引っかかったことは、お祖母さんが我が子に触ろうとしたことではなく、一度も私の目を見て話をしてくれなかったことだった。
つまり、お祖母さんには私はまったく見えていなかったのである。母親になってから、周囲の関心が我が子に集中し、自分が空気のようになってきたように思う。
また別件で、夫の実家に行った時のこと。
我が子の保育園事情や、私がどのような思いをして日々育児をしているか。
ワンオペ育児中だと、どうしても子供にかかりきりで他人と話す機会が少なく、誰かに聞いてほしいと思って、義父母や夫に話すのだが、結局その話はほぼスルーされ、聞かれていないも同然な雰囲気で時間が過ぎた。
一方で、我が子がくしゃみをし、少し笑っただけで、周りは拍手喝采、大盛り上がりだった。
またしても私は空気だった。
母親にも承認欲求はある。世に言いたい、私たちは御役御免じゃない
先日、子供繋がりで出来たママ友がこんなことを口にしていた。
「子供は可愛いんだけどさ、子供忘れて遊び呆けたいよね~」
育児を舐めていると言われそうで仕方ないが、私は出産するまで、母になったとしても自分らしさ(アイデンティティ)は保てると簡単に思っていた。
中には、子供がいたとしても自分を美しく律し、社会的にも上の立場を保持する母親もおられる。
しかし、最近になって思ったのは、それはあくまで少数で、世の母親から憧れるべき存在であるからこそ、あえて広告塔など目に付くところに選出されるのである。
世の中はそんなに甘くない。
ほとんどの母親は自己犠牲の下に子供を育て、どんどん空気化しているのが実情だ。
だからこそ、行ったことはないが、ホストクラブなんて超危険だと想像する。
よいしょされ、若いイケメンにちやほやされると、普段そんなことはまず無いから調子に乗り大金を貢いでしまいそうだ。
この前、私の承認欲求を満たしてくれたのは、信頼のおける高校の男友達(無料)で良かったなとつくづく思った。
母親だって一人間であり、一女性である。
子供を産んだからといって御役御免ではなく、時には目を向け気にかけてほしいと、世の中へ所望する。