私はつくづく、セルフプロデュース能力が人より劣っていると思う。それは私の周りの個性豊かな性格を持つ家族や友人を見ているからなのか、過去の自分と今の自分のキャラが違うからなのかは分からない。

いじられキャラだった私は、高校から「真面目キャラ」になった

中学校の頃まではいわゆる「いじられ」キャラであった。常に私の周りに私をいじってくれる人がいて、一緒にふざけて笑い合う。その時の私は自分でも、そのキャラが気に入っていたし、友人たちに笑ってもらえることが嬉しかった。何よりも楽しかった。だから私はこういう人間なんだと思っていた。

しかしながら、高校生に上がり、知り合いが一人もいない、いじってくれる人もいない、私自身で人間関係をゼロからスタートさせなければいけない環境に直面すると、いじられキャラというものが全く機能しなくなってしまった。いじられキャラというものは、いじる人がいなければ成立しないのだから。

入学式の夜、その事を悟り、暗い部屋で一人わんわんと泣いていた。号泣していた、と言った方が正しいだろう。今思い出すと、そんな些細な事で、と自分でも思うが、当時の自分にとっては世界の終わりのような絶望感があった。
キャラのゲシュタルト崩壊。それは、それまでの私自身が存在しなかったかのような空虚さをもたらした。

そして、高校生の時から現在に至るまで定着した新しいキャラが「真面目ちゃん」キャラ。自分では頑張ってふざけているつもりが「キャラじゃないことしないでよ」と一蹴されてしまう。中学生まで「~ちゃん」とちゃん付で呼ばれることなんて一度もなかったのに、高校のクラスメイトは皆、私のことをちゃん付で呼ぶ。

いじられキャラだった時代なんて無かったのでは?と感じるように…

いつも言われる第一印象は「真面目」「静かそう」「大人しそう」「いい子そう」。仲の良い友人ができても、仲良しグループができても、私のポジションはみんなを見守るお姉さんキャラ。遊びに行っても、会話にいても、自分がそこにいる気が全くしなかった。もはや、自分は生まれつきこのキャラで、自分がいじられキャラだった時代なんてなかったのではないか思うようになっていた。

思えば、小さい頃から内弁慶だった。甘やかされて育ったからか、家の中ではわがまま放題。外に出ると、緊張しやすくあがり症で照れ屋さん。もしかしたら、この内と外での性格の切り替えが思春期のキャラ構築の葛藤に影響していたのかもしれない。カセットテープのA面とB面といったところだろうか。純粋な少女時代のように、自由にカセットをひっくり返し、出し入れできればいいものの、高校時代の私は、自分でカセットを裏返すことすらできなかった。

「真面目そうなのに、仲良くなると面白い」それが私の魅力だ

大学生になり、クラスという枠組みがなくなると人間関係がぐっと楽になった。気の合う友人とだけ付き合えば良くなったので、自然と素が出せるようになった。ある時、仲の良い友人から私のキャラについてこう言われた。
「ギャップがいいんだよ」
その一言で救われた気がした。

「真面目そうなのに、仲良くなるとすんごい面白い」
友人はこう言ってくれた。初めて、自分が、自分のカセットテープの両面が受け入れられた瞬間だった。長い間、自分では取り出せなかったカセットを、この友人が軽々とひっくり返してくれたのだ。

よく、人は、出会う環境や人によって変わるなどと言ったりするが、本当にそうだと思う。
高校時代、人に恵まれなかった訳ではない。私の場合、私自身の「キャラ」と「環境」がマッチしなかっただけの話である。人との相性があるように、当時の私は「私がいる場所」との相性が悪かった。誰のせいでもない。セルフプロデュースが苦手な私が、自分はいじられキャラというA面と真面目ちゃんキャラというB面のどちらも併せ持っていることにまだ気付けていなかっただけだ。

友人関係が人間関係のすべてだと思い込んでいたから自分がイメージするキャラと周りからのイメージが一致しないといけないという強迫観念に駆られていたのだと思う。他にも楽しい世界はいっぱいあったのにそんな小さなことを気にして、自分だけのせまい世界に閉じこもってしまう。人生で一番楽しいかもしれない高校生という特別な時期。もったいない気がしなくもない。でも、
「ま、これも青春だったのかな」
今はそう思える。

来年には就活という人生における一大セルフプロデュースイベントがやってくる。まだまだ、自分を見せることに勇気がいる私であるが、もし過去に戻れるとしたら、高校時代の思春期真っ只中の些細な悩みに頭を抱える自分に一言だけ声をかけてあげたい。
「どんな自分でもいいんだよ」

そのアンビバレンスが、今の自分の一番の魅力なのだから。