最初に、私は適宜性格を使い分けることができる。その場に上手く溶け込めるよう表情、仕草、口調、発言を使い分ける。
あるときは、模範的な女子生徒として学生生活を送り、またあるときは、テーマパークのスタッフとして、ファンタジーを体現する役を担っていた。いわばカメレオンのように生きている。
無言の「らしさの圧力」により無意識に「他人の考えるらしい自分」へ
その場から離れ、「ひと仕事終えた」と安堵し、両耳にブルートゥースイヤホンをつけたとき、私は元の色へ戻る。イヤホンからは、ギター、デスボイスが激しく鳴り響く。ときには、ピアノやバイオリンが鳴り響く。ラップ、アカペラ、ボカロ、歌謡曲。
そっと目を閉じ、曲に思い耽るとき、過去に吐き捨てられた言葉がぐるぐると頭をよぎる。「~さんらしくないね」「~さんってそういうタイプなんだ」「いいな~、みんなから愛されて」。
こんな感情(違う、これは虚像。本当の自分ではない)に苛まれながらも、私がカメレオンを選んだ理由は、ただ平和に過ごしたいからだ。
物心つく前までは、“自分”を出していた。しかし、いつしか自分を出すことに恐怖を覚え、無言の“らしさの圧力”により、無意識に“他人の考えるらしい自分”へと変化した。
ナチュラルメイク、初対面から人当たりの良さ。第一印象は大抵「真面目そう」「癒し系」と、悪いイメージが少ない。自然と得た第一印象がいいことを利用して生きている。もちろん、キラキラしたものへの嫉妬から、妬みや嫉みでケチをつけられることもある。
馴染むためのカメレオンであってもモラルに反しないが、私のルール
以前のアルバイト先では、上司に気に入られていた私を気に食わなかったお局が難癖をつけ、そこに取り巻いている主婦集団から無視や冷たい視線を浴びたこともあった。くだらないことしてないで仕事したらと内心思いながらも、笑顔を作って仕事を続けた。
ここで、お局に気に入られるように、なりすますことも容易なのでは? と考えるだろう。私は、カメレオンに扮するとき、2つルールを設けている。
1.カメレオンであるときに、人間として価値を下げることはしない(悪口の同調・悪意のある意見や行動の賛同・卑怯な行為への加担)
2.グループには属さない
その環境に馴染むためのカメレオンであっても、モラルに反しない。本当の自分の心を尊重しつつ、私が社会に馴染むにはこれらは絶対であった。これを聞く限り、カメレオンも楽ではないのでは? と思うだろう。
しかし、実際、カメレオンの生活は悪くない。俯瞰して物事を見ることができるし、何より、無理して人間関係を築くことがない。私は、合わない人とは心の底から仲良くはなれないという考えだ。仲良くなるための努力は、はっきり言って無駄である。今、この瞬間、相手に気に入られるために口を合わせている人、仲間外れになりたくないから一緒に遊びに出かけている人、嫌われたくないから相手の表情を気にして、無理して笑っている人に気づいて欲しい。あなたの1分1秒、1円5円、あなたが考える以上に貴重な物であるということに。
私の「自分らしさ」は、私が私を見せたい相手に見せる。それで十分!
カメレオンとして生きる私。心の葛藤はあったが、後悔はしていない。「~さん、その考え面白いね」「~さんのそういう意見斬新だね」そう、私の自分らしさは、私が私を見せたい相手に見せる。それで十分。
出会いやきっかけはまちまちで、抽象的な表現になってしまうが、第六感がそわそわと胸騒ぎしたとき私は自分の色を出す。相手は少し驚くが、その後笑顔を見せてくれる。
学校、職場、小社会に属する者は、多かれ少なかれ自分らしさを押し殺して過ごしている。日本人は調和を重んじる習性がある。良くも悪くも、そうして日本社会が成り立っている。
社会が円滑に進む構図なのだとしたら、それもそれで良いのかもしれない。むしろ、その構図を利用するに越したことが無い。自分を出したいのであれば、自分を受け入れてくれる相手に思う存分自分を曝け出せばいい。
申し訳ないが、小社会で順応して生きる私だが、心の中では、顔色を窺っておべっか使っている人を見るとアホらしく思い、自分の意思を持たずヒエラルキー1軍の周りを囲む2軍を哀れみ、一緒に悪口を言う者に対して論外だと思っている。本当の自分は、反骨精神むき出しの集団にいたら厄介な人間である。
はっきり言っておく、これが私だ。