こうなりたい理想の自分、こうありたい自然な自分、こう見えるように演じる自分。誰もがいろんな自分のイメージを創造して選び取っている。それをものすごく複雑に組み立てる人も、まるで何も意識していないような人も、自分以外の他人と関わる以上、日々気になることはあると思う。

物心がついたときから「どうすれば人に好かれるのか」を考えていた

物心ついた時には、すでに「どうすれば人に好かれる私になるのか」を考えていた気がする。
幼稚園生の時、かわいくて優しくて、その柔らかな雰囲気に憧れて、とにかく私はAちゃんと仲良くなりたかった。家が近いこともあり、何かと一緒にいる時間は多かったのだけど、Aちゃんには特別仲の良い子がいた。

「私はなぜあの子のように、Aちゃんと親密になれないのだろう?」
話が面白くないから?顔がブサイクだから?性格がキツいから?何がダメなんだろう、そうやって悩み始めたことが、「人からの見られ方」を常に考えるような人間になるきっかけだったと、今思う。

人に好かれる女の子像は、ハマっていた少女漫画の主人公や流行っていたアイドル、自分の周りにいる友達の多い子を参考にしていた。とにかくいつも笑顔で元気、容姿も整っていて、人に優しくするように。

私という人間へのイメージも大事だと思った。誰かが私を思い出す時、その私は笑顔でいてほしいから、いつも口角を上げるようにしていた。恐い先生に怒鳴られても、友達に無視されても人前で泣いたりなんてしなかったし、男子に理不尽な言いがかりをつけられても怒りを露わにすることはなかった。

自身の好みより「理想の私」を創ることは演じているみたいで楽しかった

穏やかに、穏やかに。
散らかる激しい感情を、おにぎりを握るように小さくして、地面に沈めていくような感覚。
深く沈めるほど口角は上がっていって、強く感情を揺さぶられるほど満面の笑みを浮かべるようになった。

その結果なのか、「悩みなさそうだね」「何も考えてなさそうだね」と言われた時、ものすごく嬉しかった。脳が震えるほど嬉しかった。ああ、いつもニコニコして楽しそうに見えていたんだな、うまくできていたんだな、、

印象付けという点で、私自身の好みより、理想像で見られるために好きなフリもした。
本当は水色が好きなのに、ピンク色の小物で身の回りを固める。パンツの方が好きだけど、スカートかワンピースしか着ない。親しみを持たれるように、苦手なラーメンも替え玉。
おかしいと思われるだろうけど、そうして「私」を創ることも楽しかったし、周りからの扱いもイメージした私へのそれになっていった。

まるで芸能人みたい。私じゃないキャラクターを作ってカメラの前で演じる。中二病のような高揚感。

歳を重ねるごとに演じるキャラクターが薄まっていく気がしている

本当の私なんてみんな知らなくて良いし、だいたい本当の私って誰?
人に認められること、好かれることで、自分が存在することを許せる。そんな思考で生きてきてしまった。

だけど、それって私だけではないはず。この世で社会活動に勤む人間は、少なからず同じ部分を抱えていると勝手に思い込んでいる。
歳を重ねるごとに、演じること自体は身体に染み付きながら、演じるキャラクターは薄まっていく。自分の好きなものを好きと言えるようになったけど、やっぱり人の目は気になってしまう。

ナチュラルになったはずの私は、それでもどこか、言葉や仕草の端々にわざとらしさを感じてしまう毎日だ。