私が上京した日、東京は暴風雨だった。雨風が強く傘を差すことが困難なうえ、3月とは思えないほどの気温の低さで、体感温度は10度を下回っていたのではないかと思う。上京がこんなに過酷なものになるとは、想定していなかった。

想定外だったのは、天気だけではない。元々、私は大学に進学するタイミングで上京するはずだったのだ。それがなぜか、浪人のための上京となってしまった。

高校在学中に大学に合格出来ず、浪人生活を東京で送ることに決めたからなのだが、浪人しても、1年で大学に合格する保証はない。「大学に受からなかったらどうしよう」という心配が常に付きまとう浪人は、誰だって経験したくない。もちろん、私のライフプランにも、浪人は組み込まれていなかった。

成績が良かった私。周囲の期待に応えなければというプレッシャー

浪人することになったのは仕方ないとしても、どうして上京する必要があるのか疑問に思われるだろう。地方出身者が浪人する場合、地元の予備校に通うことが一般的だ。地元を離れる場合は、親の転勤など、やむを得ない事情があることがほとんどだ。私の父親は転勤族ではなく、母親は専業主婦であるため、両親いずれも地元を離れる事情がない。

東京で浪人することを決めたのには理由がある。
私は高校生まで学校の成績が良かった。特に中学生の頃は、入学から卒業まで学年トップを維持していた記憶がある。好成績を維持すると、クラスの枠を超えてその噂が広まる。日頃、クラスの内外から、「頭が良くていいね、悩みなんてないでしょ?」「高校受験、大学受験も楽勝でしょ?」などと言われることが多く、反応に困った。私の将来について、勝手な期待や妄想を広げられても重荷にしかならなかった。

中学高校の頃の私は、みんなのその反応に応えなければならないと無意識に感じていた。いつしか、「テストの成績が悪かったら皆を失望させてしまう」とプレッシャーを感じるようになった。

親にも干渉されない状況に身を置きたかった私は上京を決めた

さらに、家庭内には別のプレッシャーがあった。
父親が私のテスト成績をExcelで管理しており、テストで良い点数を取ると、一定のお小遣いがもらえたのだ。たとえば、100点だったら1,000円、90点以上だったら500円といった具合だ。中学生まではお小遣いがもらえなかったので、私にとってテストは、お小遣い稼ぎの良い機会だった。

しかし、お金が絡んでいることによって、勉強のプレッシャーが強くなってしまった。テストの点が、お小遣いがもらえる基準に達しなかった時、「ああ、今回はお小遣いがもらえないね。残念だね」と父親に言われた。
その一言は、テストの点が良くないと父親は私を認めないと言っているようだった。

プレッシャーに晒され続けた結果、体調に変化が起きた。
授業中やテスト中、お腹が痛くなってしまうのだ。中学3年生くらいの頃から、ほぼ毎朝、整腸剤を服用してから登校するようになった。学校にも整腸剤を持参した。他にも、夕方になると頭痛がしたり、睡眠時に途中で目が覚めたりといった症状があった。

こうした症状を抱えたまま受験を迎え、第一志望の大学には不合格となった。大学合格のためには、プレッシャーの要因から離れる必要があると考えた私は、両親に頼み東京で浪人することにした。とにかく誰も私のことを知らず、親にも干渉されない状況に身を置きたかったのだ。

いよいよ上京。嵐のような暴風雨が、不安な気持ちを紛らわせてくれた

東京では、予備校が用意している女子寮に入ることになった。
家具は備え付き、食事は休日を除いて1日2食、部屋ごとに風呂トイレが付いている寮だ。入寮の際は、着替えや日用品、勉強道具などを事前に地元から東京に段ボールで送り、入寮日当日には身一つで向かえばよかった。寮に着いたら、半日ほどで荷ほどきをして寮生活開始となる。

一刻も早く離れたい地元だったが、家族と離れて寮暮らしをすることは不安だった。
上京直前には、子どもの頃から集めていたぬいぐるみ20体ほどを抱え、部屋の隅で人知れず泣いていた。

いよいよ地元を離れる日、そんな自分の気持ちに呼応するかのように雨が降っていた。
東京に近づくにつれ雨脚は強まり、もはや嵐といえるレベルになった。確かに引っ越し作業には不向きな天気だったが、雨の中、寮にたどり着くのに必死になる必要があったため、不安な気持ちを紛らわせるのにはちょうどよかった。

気持ちが完全に落ち着いたのは、入寮日の数日後、初めて寮での食事が出された日だ。食堂に集まった女子たちを見て、みんな家族と別れ、あの暴風雨を乗り越えて今ここにいるのだと思うと安心した。

また、早速友人が2人できた。出身県が近いということで会話がはずみ、浪人生活中は勉強の合間に部屋を行き来したり、何かあれば悩み相談したりする仲になった。

この友人たちは、出会いから9年が経った今でも大切な存在だ。住んでいる場所が100キロ以上離れているため、今は頻繁に会うことができない。
しかし、あの日暴風雨を経験し、そして1年後に一緒に退寮していった仲間だ。これからも絆は揺るがないと思う。