24歳当時。私は都内の大手広告代理店で、馬車馬のように働いていた。週に3日は会社に泊まり込み。「できない」と音を上げたら、“仕事ができない奴”の烙印を押されてしまう。だから今夜も、オフィスの堅い椅子を並べて眠りにつく。

男性に負けまいと、仕事以外のすべてを「犠牲」にして生きていた私

使う暇がない私用のスマホには、恋人からのLINEが何件も入っていた。「まだ仕事かな」「大丈夫?」「おやすみなさい」既読にしたくせに、返信せずに眠りについた。もう3週間くらい既読スルーだ。そろそろ、怒ってくれてもいいのに。そう思っても、彼は決して怒らない。ただただ、優しいメッセージを、送り続けてくれる。

私はメッセージを返さない。化粧をしても消えてくれない濃いクマ。同じくらい徹夜していても、疲れなんて感じさせない同期の男の声。彼らに負けまいと、口にする言葉だけはいつだって威勢がいい私。仕事以外のすべてを、彼との時間すら犠牲にして生きている私。そんな私は、彼になんと返信をすればいいか、わからなかった。

堅い椅子の上で目を覚ましたその日、なんだか体の調子がおかしかった。お腹が張り裂けるように痛くて、気がついたら、救急車の中にいた。あれよ、あれよという間に検査をされ、呆然としているうちに、私は簡易ベッドの上で、医師から、こう告げられた。

「左側の卵巣が炎症をおこしています。すぐに手術をしないと、卵巣が片側、腐ります」と。腐る? 頭がまったくついていかなかった。私は首をかしげる。「それは、命に関わるものですか?」と私が聞くと、医師は頷く。「あなたの命にも、そして出産をご希望されるなら、あなたが授かる未来の命にも」。

彼は優しい人だけど、私が寄りかかるには、あまりにも優しくて弱い

24歳。まだ若いと思っていた。結婚は30歳までにはしたいけれど、それまでは自分のやりたいことをやればいい、子供は、その時に考えればいいと。その可能性が、なくなるかもしれないなんて、考えたことすらなかった。震える手で、私は手術の同意書にサインをした。麻酔から目を覚ましたら、すべては終わっていた。

一週間の入院後、退院してから、私は既読もしていなかった彼に連絡をした。久しぶりに会う彼は相変わらず優しくて、抱きしめられた腕の中で、私はオフィスで倒れて手術をしたこと、そして入院中、ずっと考えていたことを彼に告げた。「私、自分がどうしようもなく『女』なんだって、気づいた。いくら徹夜したって、男に負けないくらい仕事したって、私が『女』であることからは、逃れられないって」。

私は彼の顔を見ずに、腕の中でささやく。「これから私は、結婚をして、出産をする『女』として生きていきたい」。相槌の代わりに、彼のすすり泣く音だけがした。あぁ、こんなこと、優しいこの人に聞かせたくないなぁ。溢れそうな涙をこらえて、声が震えないよう、最後の見栄を張った。

「あなたと結婚して、子供を産む未来が、見えない。別れよう」と。彼は、ぎゅと強く私を抱きしめた。「俺のこと好きだった?」と聞いてきたので、私はあいまいに頷いた。「優しい人だとずっと思ってたよ」と。優しい人だった。私が寄りかかるには、あまりにも優しくて、弱かった。

私はきっとどこかで、彼に「叱られたかった」んだと思う

男に負けないくらい強くならなきゃいけない。そう思って働いている私の姿を、彼はどんな気持ちで眺めていたのだろう。自分を一切、頼ってくれない、女の姿を。私はきっとどこかで、彼に叱られたかったんだと思う。「俺が守るから、無理なんてするな」って。

でも、来るメッセージはいつも「大丈夫?」って、顔色をうかがうようなものばかり。だから、私はメッセージを返せなかった。強がりな私が、「大丈夫だよ」以外、返せるわけがないと、気づいてよ。その想いが伝えられない、伝わらない時点で、私達の関係には、終わりが見えていた。

数時間後、これまでの感謝、懺悔、今後の幸せを祈る言葉など、彼らしい優しいメッセージが届いた。面と向かって言ってほしかったなと、身勝手な私は思った。既読にして、削除して、私はベッドの中で、流す資格のない涙を流した。