「じゃあ俺の代わりに教習所に行ってバイトもしてよ」
大学の食堂で携帯を触っていると、そんなメッセージが入ってきた。彼と別れたのはそれから1年ほど経ってからだけれど、このメッセージを読んだ瞬間、もう駄目かもしれないと思ったのを覚えている。
役者を目指す彼との将来に不安はなかったけど、いつも気を遣っていた
当時は互いに大学四年生。彼は役者の道を進み、わたしは普通に就職活動をしていた。秋になってもオーディションを受け続ける彼と、就職が決まり落ち着いた日々を送るわたし。不安定と安定。分かりやすくすれ違っていった。
わたしは舞台の上で輝く彼も、稽古に明け暮れる彼も、パン屋のバイトを頑張る彼も、体調を崩すと素直に甘えて来る彼も、嫉妬しやすいけど素直になれない彼も、大好きだった。つまり、なにも気にしてなかったのだ。役者を目指す彼との将来に不安は一切なかった。
ただ、気を遣わない訳にはいかなかった。わたしに比べ彼はいつも忙しそうだったし、わたしのように論文や学力で勝負する世界とは違う、身一つで自分を売りだし続けるというのはどれだけ辛いだろうと思っていた。
彼の負担にならないように、会いたいと口に出すのを控えて、互いが落ち着くのを待つと決めていた。それでも、彼に会いたくて仕方なくなり、「会える日はある?」とメッセージを送った。「会えない。」という返事に、少し拗ねた態度をとってしまったところ、冒頭のメッセージが届いたのだ。
教習所に代わりに行くこともバイトを代わりにすることも出来ないに決まってるじゃん。気持ちを分かってくれるだけで良かったのに。メッセージがじんわり涙で霞んでいく。彼のなかで、もうわたしの存在は小さいものなんだろうと感じた。
恋のジェットコースターは霧の中へ。隣に座った彼も見えなくなった
わたしと彼の恋愛は、20歳という若さで始まり、お互い恋愛経験が少なかったのもあり、世間で言う「ジェットコースターのような恋」に近かったと思う。沢山喧嘩したし、お互い泣いたし、長文のメッセージを送りあったりした。周りを巻き込むこともあった。
とても体力を要したけれど、他人に対してこんなにも大きなエネルギーを使うのは初めての経験だった。怒りとか、嫉妬とか、出来れば人に見せたくない醜い感情を、彼にはぶつけることが出来た。「何でもまずは言って。俺の気持ちが変わることなんてないから。」といつも言ってくれていた。
「会いたい」という気持ちに対して、それが出来ないならば、強く言い返してほしかった。教習所もあるし、バイトもあるし、オーディションもあるし、こんなに忙しい俺の気持ちはわかるか、と言ってくれたら良かった。
「代わりにやってよ」という言葉は、あまりにも向き合う気を削いでくるし、話し合いを放棄している。この人はもうわたしとぶつかる気は無いのかもしれないと感じた。だからわたしも、ぶつかる勇気が無くなっていった。
ジェットコースターみたいな恋だったから、別れるならばなにか大きな喧嘩が原因になるんだろうと、何となく思っていた。現実は、ジェットコースターがいつの間にか霧の中に入っていて、隣に座っているはずの彼も見えなくなった感覚だった。霧の中を1年間、ただのゴンドラと化した乗り物で過ごした結果、お互いをもうこのレールから解放しようと思い、1人で降りることを決めた。彼は、別れたいから会って欲しいというメッセージに、数週間既読さえもつけなかった。
ジェットコースターでしか味わえない感覚と同じで彼は唯一無二の存在
何とか地面を歩き出してから数ヶ月経った頃、彼から「会いたい」と連絡が来たけれど、心が踊るどころか幻滅した。わたしは半端な決意でゴンドラを降りたわけじゃない。それならあの時に返事をくれなければ意味が無い。わたしの気持ちは何も届いていなかった。深く傷ついた。酷いと思った。でも、その感情を伝えたいとは思わなかった。彼に対してはもうその気力が湧かない。伝える価値を感じなかった。わたしたちはフッた理由もフラれた理由も共有することなく、別れたのだ。
そういえば、わたしが何度注意しても直らなかった、お酒を飲んだ日に床やソファで寝てしまう癖は相変わらずだろうか。翌日の朝、体の痛みとともに、うるさかったなぁ、とわたしのことを思い出したりするだろうか。
わたしはきっと、彼を完全に忘れることはない。ジェットコースターのあの浮遊する感覚はジェットコースターでしかなし得ないように、 結局彼はわたしにとって唯一無二の存在なのだと思う。
彼はわたしのことなんて、忘れ去っているかもしれないけれど。