「さすがだね」「あなたならできるよ」と、塾の先生はよく私に言った。小学生だった私は、それが嬉しかった。褒められるのが、素直に嬉しかったのだ。

しかし、中学生になって、その気持ちは一転した。周りからの期待値がどんどん上がっていき、学校の定期試験で高得点を取っても、周りの大人たちは「次回はもっと頑張ろう」と言う。

私は天才なんかじゃない。どうして努力を認めてもらえないんだろう?

なぜ? 私は精一杯頑張ったのに。頑張った結果が、この点数なのに。最初は嬉しかったはずの「さすが」という言葉も、どんどん嫌になっていった。「さすが」なんて言葉より、「頑張ったね」とか、そういう努力を認めてもらえる褒め言葉の方が、何倍も何十倍も嬉しいと思うようになったのだ。

私は天才なんかじゃない。もとから勉強ができる人間なんかじゃない。努力して、たくさん単語練習もして、ようやくここまでできるようになったんだ。どうして、それを分かってもらえないんだろう。どうして、努力を認めてもらえないんだろう。

小学生の頃からのイメージである頭が良い私は、本当の私じゃない。私はみんなが思ってるほど、頭が良いわけじゃない。本当はもっと馬鹿なのだ。それを、分かってもらいたかった。そうしたら、今の点数のままでも十分褒めてもらえると思った。

高校生になり、私は「馬鹿キャラ」で生きていこうと決めた

そんな不満を抱いたまま、高校生になった。高校に入学すると周りの人間が一気に変わるため、私のイメージを変える絶好のチャンスだと思った。高校では、馬鹿キャラで生きていこう。

私は、定期試験の勉強をほとんどしなかった。かといって授業を真面目に聞いていたわけでもなかったため、点数はもちろん低かった。赤点を取ったことも何度かある。「馬鹿だね~」「また赤点?やばいね」と、高校の友達は私のことを馬鹿扱いしてくる。私は嬉しかった。やっと頭が良いというイメージを持たれなくなった! 私は馬鹿なんだ! これが本当の私なんだ!

しかし、馬鹿なイメージがついたが故に、中学生の頃の話を信じてもらえなかったり、行きたい大学を言ったら「無理だ」と笑われたりした。とても悔しかった。小中学校での努力が、全て否定されたような気さえした。

今までずっと、馬鹿だと思ってもらいたかったではないか。それがやっと叶ったではないか。それなのに、なぜ嬉しくないのだろう。

その時ようやく気がついた。私は自分の努力を認めてもらって、褒めてもらいたかっただけだったのだ。頭良く思われたくないとか、馬鹿キャラに見られたいとか、そんなことは私の悩みの根本ではなかった。

「この子ならできる」と私を信じてくれる人に感謝するを忘れない

後から思い返せば、私のことを期待してくれていた人たちは、私の努力を誰よりも近くで見てくれていた。「あなたならできる」とプレッシャーをかけていたのではなく、「この子ならできる」と私のことを信じてくれていた。

それに気づけなかった私は、勝手に押しつぶされ、崩れていったのだ。最初から頭の良い人なんてほとんどいないのに。天才と呼ばれる人だって、たくさん努力しているはずなのに。

それから私は勉強面で、人にこう思われたいとか、本当の自分はこうだ、というふうに考えることはなくなった。もちろん褒めてもらえたら嬉しいが、どれだけ褒めてもらえたって、どれだけ自分のイメージや見られ方にこだわったって、進みたい道に行くことができなかったら何の意味もない。

支えてくれている人たちへの感謝を忘れないこと。期待を勝手にプレッシャーに変換しないこと。本当の自分を気にしすぎないこと。そして、決して努力を怠らないこと。

それが、頭良いキャラも馬鹿キャラも経験した私だからこそ気づくことのできた、大切なことだ。