「あの子」がいたから、自分にも価値があるのだと思えた。
「あの子」は、私の心のオアシスだった。
こんなことを書くと、大げさに聞こえるかもしれない。でも、私は本心で綴っている。

とにかく感性が似ている彼女。こういう人を親友と呼ぶのかもしれない

彼女と出会ったのは大学一年生の頃だった。同じ学部であったため、授業で顔を合わすことがときどきあった。
しかし、本格的に話すようになったのは二年生になってからである。

私の大学では、二年生になると、研究室に配属され、それぞれの専門科目を学ぶようになる。彼女と私は同じ研究室に配属された。当然、授業もかぶることがほとんどであったため、自然と一緒に昼休みを過ごすようになった。

話せば話すほど、彼女と趣味が合うことに気づいた。例えば、西洋美術に関心があること、お笑いが好きなこと、人付き合いを煩わしく思うこと、好きな作家、小さい頃読んでいた本、感動した映画……挙げ出すとキリがない。

彼女とは、とにかく感性が似ているのだ。一緒に美術館に行った後で感想を語り合っていると、惹かれた絵画は大概かぶる。私が見たいと思っている映画は、大抵彼女も気になっている。私が素敵だと感じたバンドのアルバムを彼女に勧めると彼女も好みだと言う。

中でも一番驚いたのは、彼女が道端のカラスを見て、綺麗だよね、と言ってきたときだ。私は小さい頃からカラスの姿を美しいと思っていた。
しかし、カラスはゴミ捨て場でお目にかかることが多く、汚いというのが世間一般のイメージである。そのため、共感された試しがなかった。

それなのに、である。彼女は、自らカラスのことを綺麗だと発言したのである。目からウロコの気分だった。私以外にもカラスを美しいと思う人間がいたのか、と。
そして、安直ではあるが、こういう人のことを親友と呼ぶのかもしれない、と思うに至った。

就職活動がうまくいかず限界だった私を彼女のLINEが救ってくれた

こうして、彼女は私の大学生活の中でかけがえのない存在となった。

彼女とは京都で紅葉狩りをしたり、プラネタリウムを見たりと定期的に出かけていた。
しかし、四年生の春頃から就職活動が本格化すると、お互い忙しくなり、なかなか会う機会をが作れなくなった。たまにする近況報告のLINEだけが、彼女との接点だった。
そして、これこそが私を救ってくれたものだった。

私は就職活動がちっともうまくいかなかった。面接を受けては不採用通知のメールを確認する、の繰り返し。気づけば、落ちた企業は50社を超えていた。

周りの友人らは、とっくに内定をもらっていた。自分で自分が情けなかった。家族にもあきれられていた。正直なところ、精神的に限界だった。この社会で働く機会すら与えられない自分には、何の価値もないんだ。こう思うようになった。駅のホームから飛び降りる自分を想像することもあった。

そんなとき、彼女から一通のLINEが来た。
「そろそろあなたに会いたいよ~!」
この一言でどれだけ私が救われたことか。私に会いたいといってくれる人がいる。心の底から嬉しかった。私にも価値があるのだ。こんなどうしようもない私だけど、生きていてもいのだ、と思えた。

どんなみっともない姿でも、ありのままの私を受け入れてくれる存在

私の就職活動は、納得内定とはいかなかった。おそらく、この先転職活動をするだろう。あるいは、フリーターになっているかもしれない。友人らがどんどん昇進していく中で、アルバイトに勤しんでいるかもしれない。

でも、私はきっといつだって前を向いているに違いない。なぜって、あの子だけはありのままの私を受け入れてくれる存在だと確信しているからだ。どんなみっともない姿をさらしても否定せずに、私という人間と向き合ってくれる。

あの子とは、卒業旅行でヨーロッパを周遊する計画を立てていたが、コロナ禍で不可能となった。この計画は、いつか必ず実行に移そうと約束した。

それまでは、たとえ大型トラックに轢かれようとも絶対に死ねない。