「鏡の前で毎日『私は可愛い』と言うと、本当に可愛い子になれるんだよ」
母はずっとこれを言っていた。白雪姫の継母みたいと思いながらもそれを信じた幼少期の私は、鏡を見つけるたびに「私は可愛い私は可愛い」と呪文のように唱えた。別に自分の顔が大嫌いというわけではないけれど、もっと可愛くなりたいの一心で必死だった。
しかし、そんな事をしても物理的に顔は変わらないと気づいたのは小学校に入ってすぐのこと、気がつけばその呪文を唱えることは無くなっていた。
しばらくして私は中学生になる。その頃自分はいわゆる可愛いとカテゴリーされる人間ではないと自覚していた。
そんなある日友達から「可愛いんだから、もっと笑ってよ!」と言われる。それと同時に私の表情が全く変わらないことから楽しんでるのか、つまんないのかわからないとも言うのだ。衝撃だった。なぜなら私はその時ちゃんと笑っていたのだから。
家に帰って鏡の前に立つ。ためしに笑ってみた、そこにはほとんど口角の上がっていない引きつった表情の自分がいた。「気持ち悪っ」思わず口からそうこぼれた。

その日から始めた笑顔の練習。忘れていたはずの呪文を口にしていた

その日から私は笑顔の練習を始める。せめて相手に笑ってますよと伝えることができないと、最低限のマナーとして笑顔くらいできるようにならなければと、こうでもないああでもないと鏡の前に立つたびにいろんな笑い方を試したものだ。
少し後に思ったのが「もっと笑ってよ」の前に「可愛いんだから」が付いていたなということ。思い返せば私はあの子からどれだけ多くの「可愛い」を貰っただろうか、新しい洋服を着た時、メイクをしてもらった時、プリクラを撮った時、事あるごとにそのカテゴリーにいないはず私を可愛いと言ってくれた。もしかして実は私は可愛いのでは?と錯覚してしまうくらいに。それに気付いたあとの笑顔の練習、鏡の前に立つと「私は可愛い」忘れていたはずの呪文をおのずと唱えていた。

練習の効果は想像以上に大きいものだった。
それはもう多くの人から垢抜けた、綺麗になった、可愛いと言われるようになった。
あの子も「最近すごい笑ってくれるから嬉しい」と言ってくれた。
髪型も眉毛の形もメイクも何も変えていない、ただ笑えるようになっただけなのに。
(メイクは当時中学生だったのもあってあの子にやってもらう時しかしてなかったけど)

人を美しくも醜くもするのは自分自身。でも好きになるのは難しい

しかしもう一つ圧倒的に変わったものがある。それは自分がいわゆる可愛いにカテゴリーされる人間であると思うようになったことだった。
今振り返ってもこの出来事は、私の人生が大きく変わった瞬間だと確信している。あれから私は全く興味のなかったファッション誌を購入するようになった。メイクの勉強をし、眉毛も剃ってみた。結果として平安時代の美女のようにもなることもあった。未だに笑顔を褒められるとあの時の私に教えてあげたい、よくやったよ私とにやけが止まらなくなる。
人を美しくも醜くもするのは自分自身だと思う。でも自分を好きになるのって難しい。
私はあの子からの「可愛い」と鏡の呪文で、私自身を好きになることができた。白雪姫の継母もきっと魔法の鏡があったから自分の事を好きでいられたんだと思う。そしてそれって素晴らしい事だし、自分自身がそう感じているのだから継母は本当に世界で一番美しい人なんだ。