19歳、蒸し暑さの引いた秋の初め。出会った時、彼からは深い紫を思わせる匂いがした。
私より1つ年上の彼が一層大人びて見える、落ち着いた甘い匂いに一嗅ぎ惚れ。好きな音楽アーティストと同じ香水なのだと自慢げに笑っていた。
緩くパーマのかかった黒髪に眼鏡、髭を生やして煙草を吸う外見とは裏腹に愛情深くまだ子供っぽさを残した人だった。そして重度の甘党だった。
恋人でありながら、愛を確かめられない彼の寂しさと不安が分かる
それから何度か二人で出かけて、数ヶ月後に彼から気持ちを打ち明けられた時、まだ確かでない自分の気持ちに迷い、答えを出すほんの数秒間を直感と気分に委ねた。
同時に彼が手渡したのはアトマイザーで、初めてのお揃いが香水だなんて随分粋だと思った。
まだ好きじゃないけど、好きになれそうな余白を残した人だったから。そんな感覚的な理由で始まる恋人関係は多い気がする。ちゃんと好きな時期もあったけど、結局私の気持ちが彼にないことは他ならぬ彼自身が感じ取っていた。
振り向かせようと時間もお金も感情も惜しみなく私に費やしてくれた。そんな彼を一歩引いたところで見つめる自分がいて、自分勝手に「恋」を求めていた。
恋人同士には無償の愛なんてない、与えるだけではいつか枯渇する。もともと気分の浮き沈みが激しい彼だったが、少しでも気に障ることがあるとずっと不機嫌になる日々が数ヶ月続いた。でもそれは恋人としての私に対しての甘えであり気を引きたいのだと頭ではわかっていた。恋人でありながら愛を確かめられない彼の寂しさと不安が分かる。
私は与えてもらうばかりで。自身への嫌悪感と罪悪感で、ことあるごとに彼に謝る日々が続いた。
私が想像しうる愛の中で限りなく正解に近い愛の形だった。なのに
やがて恋人としての期待を孕む視線にやるせなさを感じ、キスができなくなった。ずるずると引きずっていた違和感に足を止め直視したとき、愛はすでに情に変わっていた。それでもとめどなく捧げられる両手で抱えきれないほどの愛。私の中の罪悪感と虚しさが、ある日それを拒絶した。
片道一時間以上かけて会いに来てくれること、「似合うと思って」と不意にくれたプレゼント。一度や二度ではない。セックスも深い愛に包まれているようで幸せだった。私が想像しうる愛の中で限りなく正解に近い愛の形だった。
なのに、どうして。誰かに真っ直ぐに愛されることが必ずしも手放しで喜べることではないと知った。ただまっすぐな愛を前にして、自分はなんて非情だろう。躊躇なく誰かを愛せる彼が羨ましくて、非情な自分が許せなくて、もう彼の隣にはいられないと思った。
その気持ちは電話で伝えた。会って話したいと言われ、私の最寄り駅で待ち合わせてカフェに入る。貴方の愛に応えられない。
声は掠れ、震え、嗚咽で酸欠になりながらひとつの恋を終わらせるために必死で言葉を紡ぐ。私が話し終えるのを根気強く待った後、いつもそう言われる、と諦めたように笑った。彼自身に静かに絶望しながらも、気丈に振舞おうとする表情を忘れられない。
過去の恋愛は詳しく知らないけど、その時はっきり自分もその一人になるんだと自覚して胸が締め付けられた。一番最後になって、まだ私の知らない彼を見た気がする。一年以上も隣にいたのに。繰り返す過去、飼いならせない恋心。その日、私たちは私たち自身に絶望したんだと思う。
蔑ろにしたくない。これが答えなら誠意を持って伝えなくては
「それでもいい」
静かに、でも熱を帯びた声で彼は言う。駄目だ、それじゃ駄目なんだ。私が私を許せない。愛されるだけでは心は満たされないのだと、私の薄っぺらだった恋愛観が崩れ落ちていく。
私も、愛したかったんだ。彼の素敵なところを沢山知っている。愛情深いところ、義理堅いところ、誰とでもすぐに打ち解け、機転も利く。落ち込みやすく、夢中になると一直線。一緒に居ると愛されて恵まれて真っ直ぐ育ったことがよく分かった。
そんな彼だから蔑ろにしたくない。これが答えなら誠意を持って伝えなくちゃいけない。最後の愛と誠意が自分を愛してくれる人を自らの手で傷つけることだった。いくら言葉を選んでも鋭利な刃物で抉るように、何度も何度も彼の心を突き刺す。張り裂けるように心の芯が痛い。痛い、息ができないほどに。ああ、そんな顔をさせたいわけじゃないのに。自分勝手で都合が悪くて、ごめんね。
カフェを出て少し遠回りして駅までの道を歩く。
やり直せないか、もっと寄り添うからと何度も言われ心が揺れながらも、この寂しさは愛ゆえのものではないことを反芻する。
駅が近づくにつれ足取りは重く瞼は熱くなり、これから襲いくる孤独と深い哀しみに覚悟を決める。別れ際、抱き合いキスをした。
冬場でも温かな大きな手、カイロのように私の冷たい指先をいつも握っていてくれた。広くて少し猫背気味の背中、部活で鍛えた腕、薄くて小さな唇、潤んだ目。大好きだったジャスミンの匂いも。五感で全て記憶して歩き出す。立ち尽くす彼の痛みと絶望を背中で感じた。
ふと目に入るパンドラの小瓶。香りは一瞬で過去へと引き戻す。匂いが染み込んだ記憶へと、時を駆けることの容易さを知っている。彼に貰ったアトマイザーはまだ部屋の鏡台の隅に置かれたままで、うっすらと埃をかぶっている。