『あの子』がいたから。わたしは自分自身の人生を考えられた。

一人暮らしも共にした家族、2回目にお迎えしたハリネズミだ。
ゆっくりというよりはせっかちで、少し怖がり。知らない場所は苦手。
いつも強気で威嚇もするくせに、ケージの中で体を思い切り伸ばしてくつろぐ姿は、少しおじさんくさくて愛しかった。

本当は、この子と一緒に暮らし始める時、とても迷った。
その時私は大学院生で、卒業後は海外で職に就くと決めていた。大学時代からの夢だ。
小動物を海外に連れ出すのは、さすがに体に負担が大きい。
かと言って、誰かに預けることができるか?
絶対最後まで一緒に居たい。
それでも、ハリネズミと過ごす時間は諦められない。
進路を考える時期に彼女が生きていたら、私は、海外に行くのを諦める。
自分の将来を、彼女に託した。

まるで母の夫かのように、どんな小さい相談にものり、話を聞いた

私の実家は、間違いなく機能不全家族になるだろう。
育児放棄等はないものの、父の男女差別がひどく、長女の私は何度か虐待行為を受けている。
母も父も弱かった。父は母の話を聞かず、母は子どもに愚痴ばかりだった。母が正しいとも思わない。それでも、家族のことを考えてくれる母を、私は味方し続けた。

中学、高校に上がってからはずっと、まるで母の夫かのように、どんな小さい相談にものり、ひたすら話を聞いた。
たくさんの小さな困りごとが優先され、私の進路を話し合う時間はなかった。
それでも幸い、行きたい学部に合格し、大学ではひたすら学業に励んだ。
傍ら、母の愚痴をずっと聴き続けた。
大学時代の半分以上は母の体調が悪い時期で、私ひとりで代わりに家事を担っていた。

暗い話ばかりで…。家族はもういい。彼女とハッピーに生きよう

大学4年、父に肺がんが見つかる。もし父に何かあったら……。
4人のきょうだいの中で間違いなく一番、勉強が好きで努力もしてきた。
自分が学業を続けることはワガママなのではないだろうか。
それでも、まだ勉強を続けたい、その一心で実家近くの大学院に進学する。
実際、考える余裕なんてなかったのだ。
実家の環境はさらに悪化していた。
長兄が仕事のストレスを全て母にぶつけ、私はひたすらそのおもり。
1日に2時間も3時間も話を聞いた。
親から「死にたい、妹をよろしくね」と泣きながら言われる毎日。
考える時間が欲しい、が本音だったかもしれない。
友人と話す時間だって限られていたから。

大学院に進学した頃、長兄も転職し、少しましになったように思えた。
それでも、何かあったら私を頼ればいいという母の癖は一切抜けず、思い通りにならないと頻繁に私に八つ当たりするようになる。
妹に友達ができないこと、受験に失敗したこと。
それでも母だから、いつも耐えてきた。
悪くなくても謝ってきた。

そんな私も、ついに堪忍袋の緒が切れた。
全く私は悪くない。
母親の味方をしなかった。それだけで半年、母に無視を貫かれた。
母が気に食わないのが私だとわかっているから、他の家族も揃って私に話しかけなくなった。
唯一の癒しは、心から家族と思えたのは、ハリネズミだった。

「今日はこんなことがあってね……」
暗い話ばかりを彼女にする毎日はあまりに申し訳ない。
こんな家族は置いといて、彼女とハッピーに生きるんだ。

27歳にして初の一人暮らし。
もちろん支援など一切ない。
早朝から深夜までの研究活動の傍ら、学費と生活費を用意しなくてはならない。
「あなたに貧しい思いはさせないからね」
死ぬ気で奨学金に応募し、採用通知を一番に見せた暑い8月。

彼女の死と、私の将来。自分の生きたいように生きていく

その、次の次の冬だった、体調が急激に悪化したのは。
大好きなご飯を食べられなくなって。
最後は脚に力が入らず、匍匐前進で歩くようになっていた。
ただ、目の輝きだけは一切変わらない。
病院に行っても、なるべく楽にしてあげるしかないような状態。
早朝から深夜まで家を空けている間に、何かあったら……。
心配ばかりが先行し、本来すべき学業まで疎かになりつつあった。
体がきかないながらも、一生懸命歩いたり、ご飯をたべたり、毎日楽しそうに生きる彼女を見て、私のやってることは違うと思った。
大丈夫。彼女は私がいるときを絶対選んでくれる。
他のことより自分がやるべきことに集中しないと。
そして、よく晴れた1月の午後、彼女は旅立っていった。

彼女がいなくなって、何をしよう。どうしたらいいんだろう。
一番に思い浮かんだのは、海外に行く話だった。
研究自体もそこそこ認められていたし、毎日英語を使う環境で、英語でのコミュニケーションにも慣れていた。
もう私を縛るものは何もなくなってしまった。
ただ、自信がなかった。
無意識に、うまく行かなかったときに、自分の能力が足りなかったと思いたくなくて、できない理由を探していた気がする。
家族が反対するから。高齢のおばあちゃんにも会いづらくなる。
それでも、決めていた。
彼女がいなかったら、留学する。
自分の生きたいように生きて。
それが彼女の意思なのかと思った。

それから1年せず、無事海外での職を得ることができた。
コロナの影響もあり、時期はまだ不確定ではあるけど、引越しの準備を始めている。

機能不全家族で育った私は、自分の意志がありながらも、それを突き通す強さはもっていなかった。
失敗するのも私の自由。
私は、自分の人生を自由に生きたい。誰だってそうする権利はある。
当たり前で大切なことを教えてくれて、ありがとう。