私が10歳の時から男手一つで私を育ててくれた父に実は伝えたいこと
父に実は伝えたいことがある。
私の父は私を男手一つで育ててくれた。
私の母は脳出血で急死した。私が10歳の時だ。
私には兄弟が3人いる。私の父は、私を含めて4人もの子供を無事に今日まで誰一人欠けることなく育て上げたのだ。
父は元々、自動車整備士として働いていた。しかし平成の大不況の中で解雇され、その後は介護の道で働くこととなる。
子育てに関しては、妻に任せっきりの人であった。
立て続けに4人も子供が生まれたこともあり、私の母は専業主婦として子育てに専念した。
その甲斐もあり、母と子供である私たちの関係は良好だった。
見事、母親との愛着形成ができあがったものの、働き詰めの父親が私の思い出に介入することは多くはなかった。
父親は、仕事に忙殺された人であった。子供や妻という5人を養わなければならない。そのためにも当時は私よりも早く起床、出勤し、夜は私たちが寝静まったあとに帰宅するのだ。
たまの休みは公園に連れて行ってくれたのだが、そのときの私の印象というのは「休みの日に遊んでくれる人」という印象であった。
仕事ばかりしていた父が突然育児を。そんな父からの愛は難しかった
母親の死後、4人の子供たちの世話はすべて父親にのしかかった。当時私は10歳、上に高校生と中学生の兄が1人ずつ、妹は幼稚園生である。
10歳の私ではなんの影響力もなく、相談にも乗れない。父は一人で抱えざるを得ない状況となった。
父は決して涙を子供たちの前で流すことはなかった。
幼稚園の妹を夕方遅くまで預かってくれる保育園への異動。兄たちの学生生活も続けられるように支援。私も毎朝「朝だよ!起きなさい!」と元気に起こし、「いってらっしゃい」と送り出された。
当時の私は、母親が急死したことを嘆くことでいっぱいだったが、大人になった今考えると、父親は必死に生活を立て直そうとしていたんだと思う。
当時の私はそれはもう普通の女子小学生だった。遊んで、寝て、食べて、甘えたい、普通の子供であった。
しかし、仕事ばかりをしていた父親が、突然育児という荒波に飲まれることもあり、父親の愛は私には難しかった。
当時の私はひたすら、もっと私を見て、聞いてほしかった。
そればかりが膨れあがり続けた10代であった。
父が提案してくれた看護師になった私。看護師が嫌になり休職の道へ
一人で初経を迎えるなんと心細いことか。初めてのブラジャーを買うことのなんと恥ずかしいことか。
父親は思春期の私の心を持て余したのだと思う。それは、私ももちろんなのだが、すべては私の知識を総動員して対応するしかなかった。しかし、思春期の私は、少しばかり知識すらもくれずに死んだ母や二次性徴の相談をしにくい父を恨んだ。
それから数十年。色々なことがあった。寂しさで涙をこぼす日もあった。思春期の歯がゆい憤激に身を任せ、父に当たることもあった。
しかし、父はいつでもおちゃらけることはなく、私の問題に真摯に向き合ってくれた。
高校生のときに将来に何も見いだせずにいた私に、父は「看護師はどう?資格があればこの先やっぱり強いと思う」と提案してくれたのである。
そこから専門学校に通い看護師になり、なんとか精一杯働いた。
ある日、私は職場でのセクハラや患者の命を背負うことの責任感などのプレッシャーが度重なり、看護師として働くことがいやになってしまった。そして、休職をした。
休職をして入院と自宅療養を勧められた。
ドライブ中「あの時看護師を進めなかったら」と呟いた父に伝えたい
自宅療養をしているとき、父がドライブに誘ってくれた。
父は治療に関することも、私の休職についても、多くを尋ねたり、無理に働けとは言わなかった。ずっと見守っていてくれた。
ドライブ中には、私はよく父とおしゃべりをする。
ポツリポツリと喋る中で、父は「お父さんが、あのとき看護師を薦めなかったら、こういう悲しい思いはしなくてよかったかもしれないね……」とポツリつぶやくのだ。
そのとき、私は助手席にいたので、父の顔を覗こうと思えば覗けたのだが、できなかった。
父にそんなことを言わせた私が恥ずかしくも、悔しくもあり、父がこんなに私を思っていたんだと思うと涙が止まらなかった。
あのときは、何も言えず車から見える風景ごとその言葉を流してしまったが、あらためて父に私はこう言いたい。
『お互い様々な山や谷を迎えたが、あなたの子供は少なからずあなたの恩恵を受けてここまで来られた。そこにどんな失敗や後悔があろうとも、作り上げてきた未来はいつの日も正しくあろうとしている。そして、なによりも、あなたの与えてくれたすべてが私となったことを。』
『そして、面と向かい言うことはなかったが、産んで育ててくれてありがとう』と。
今、私は、また新しい立場で、職場で凛と背を正し、前を向いている。