私には、9歳までの父親の記憶しかない。なぜか母がいつも拘るのだけれど、“離婚”ではなくて“死別”だ。

子供から見ても夫婦仲はとても良く、所謂おしどり夫婦だった。父が亡くなって19年経った今も、母は独り身のままで「パパ以上の人はいない」と断言する。

私には「やたら甘い父」は、39歳という若さでこの世を去った

父を襲ったのは当時は治らないとされていた病気だったが、父が死んだ半年後に日本で薬が認可され、予後は劇的に改善した。神様は残酷だ。

最後まで、家族以外には病気を隠して過酷な闘病生活を送っていた。だから、会社経営をしていた父が39歳という若さで突然この世を去ったことは、会社関係者も友人達も衝撃的だったと思う。死んでしばらくは弔問客が絶えず、葬儀は規模の大きいもので、子供ながらに父親の人望の厚さと交友関係の広さを感じ、深い悲しみと混乱に包まれながらも誇らしくもあった。

私は父親が大好きで、父と母が喧嘩した時に「離婚したらどっちについてくるの?」と言われ、父親を選んで母を悲しませたこともある。父は、私にやたらと甘かった。弟には、厳しかったけれど。手を繋いだ時の大きくてあったかい手の感触や低くて優しい声、日常の些細な出来事を今でも思い出すけど、悲しいことに父親と交わした会話は成長とともに忘れてしまった。

母親は一番下の弟の産後肥立ちが悪く、学校へ行く前の私たちの世話は父親の仕事となっていた。不器用に焼かれた卵焼きとか、納豆ご飯とか、焦げた食パンとか。今でも覚えてる。当時は同級生の朝食を聞いて羨ましいと思ったし、朝食調査では恥ずかしい思いをしたものだ。

父の死がきっかけで、「家族の人生」は想像していたものから変わった

母が入院してた時は、私の長い髪を結んでくれたっけ、ゆるゆるで学校に着く頃には解けちゃうんだけど。ピアノの練習してたら、横で歌って入ってくる父はものすごくうざかった。自営業だったから毎日夜ご飯は一緒に食べて、週末は家族でお出かけして、毎年旅行に連れて行ってくれた。父がコーチを務める少年野球チームに所属して、父にべったりだった。過ごす時間が弟たちより多い分、思い出も多い。まだまだ書ききれないほど。

一番下の弟は、3歳だったから「顔も覚えてないけど、父親はいたんだなって感じ」って言う。それを聞くと、胸が押し潰されそうになる。

人生のターニングポイントで、何度父を思い出しただろう。今、父ならなんて言葉をくれるんだろう、答えのない問いかけを繰り返した。父の死がきっかけで、家族の人生は多分それまで想像していたものから大きく変わった。

母は34歳で未亡人になって、死ぬほど苦労して働いて3人育ててくれた。父に守られて生きてきた母にはどんなに苦痛で孤独だっただろうと、結婚して母親になった今なら理解できる。

父に伝えたいことは無限にあるけど、もっと長生きして欲しかった…

長女だった私は、母を支えるべく頑張っていたけど、思春期を迎えた私には母は重荷で、父親がいればもっと自由になれるのにと思ったものだ。こうして私は、甘え下手な強がり天邪鬼となり、父の死がきっかけで今の仕事に就いた。父がいなかったら絶対に選ばなかっただろう仕事。

父が生きていたら、もっと素直に人に頼ることができる可愛い女性になっていて、父に甘えて好き勝手していたに違いない。天国の父に伝えたいことは無限にあるけど、これに尽きる――もっともっと長生きして欲しかった。

母を深い愛で守って、最後まで添い遂げて欲しかった。弟たちに男としての生き方を教えてあげて欲しかった。私だって、家族のことを考えずにもっと自由に人生を選びたかったし、「パパ臭いんだよね」って友達と悪口言いたかったし、大学生になったらパパとふたりでおしゃれして一緒にショッピングに行くのが夢だった。結婚式で一緒にバージンロードを歩いて欲しかったし、孫を抱いて可愛がって欲しかった。

パパがいたら――これまでの人生の中で何度思ったかわからない仮説を、これからも私は立て続けるのだろう。