私のお父さんはすごく怖くて、怒ってばかりいた。私の意見も聞いてくれない、強情な大人だった。中・高・大と学生時代は、喧嘩ばかりしていた。自然とお父さんとは距離ができていった。
幼い頃、私が泣いていると、お父さんが抱き上げてあやしてくれたっけ
高校生の時、初めて好きな男の子とキスをした。正確には、緊張しすぎてちゃんと唇が触れ合ったのかは覚えてないけれど、彼の頬がざりっと私の頬に触れたのはよく覚えている。あれ?懐かしい、と思ったから。正真正銘生まれて初めてのキスだったのに。なんで?
帰り道にハッと、そのデジャヴの正体に気づいた。ひげ、お父さんのひげの感触だあれは。同時に、冬の空気で冷えたコートの匂いが蘇った。
あの人に思いっきり抱きついていた頃があることも、私は忘れていた。
すごく小さい頃、私が泣いていると、よくお父さんが私を抱き上げて「泣く必要はー?」と聞いてきた。それにいつも、「なーい!」と2人で声を揃えるのがお決まりのやりとり。それで、毎回不思議と泣き止んでいたような気がする。
長い学生生活を終え、私は社会人という大人になった。もともと人の輪に入るのが得意ではなかったが、社会に出たらもっとそれが際立ってしまった。嫌な事ばかりが続いて、退職と転職を繰り返し、気づいたら身体も心もめちゃめちゃになって、やがて働けなくなった。
働けなくなった私は、「家族との接し方」が余計分からなくなった
父親はもちろん、家族との接し方も余計分からなくなって、気を遣うのも遣われるのも嫌でたまらなくて、思春期の頃のお父さんへの恐怖心が蘇って、お父さんの生活音が聞こえるだけで、震えが出るようになってしまった。
お父さんの足音を聞くだけで、「お前は大人になったのに何をしているんだ」と責め立てられているようだった。お父さんは、私がベッドで丸くなってる時間も、相変わらずスーツとコートを着て仕事に行っていた。
家族とご飯を食べる時間が一番苦痛で、お母さんが部屋に呼びにきても「眠いから」と言って、家族が寝静まった夜中に冷蔵庫のものを一人でむさぼり食べていた。
だからもちろん朝には起きれず、倦怠感と不安感で昼にも起きれず、やっと夕方に起きて、携帯をいじり時間を消費して、また夜中に冷蔵庫のご飯を食べる。
もう限界だった。兄に頭を下げ、お金を借り、逃げるように一人暮らしを始めた。もちろん、お父さんには大反対された。お金も職もない状態だ。当たり前だ。それでも、私は家から出たかった。「もう無理なの」とだけ繰り返し叫んで、物件も勝手に決めて、なんとか押し切って家を出た。
私が一人暮らしを始めた理由は、家族を嫌いになりたくなかったから
「もう無理」それに込めたつもりだったけど、多分なんにも伝わってないよね。ごめんね。本当に家を出たかった理由がある。どうにも言えなかった。認めたくなかった。自分の口を塞ごうとする自分を抑えて、ここで文章にする。
これ以上この家にいたら、もう本当に取り返しがつかないくらい父を嫌いになってしまう。このまま、父を、家族を嫌いになりたくない。私には父を好きだった頃がちゃんとある。家族と仲良くやれていた頃がちゃんとある。
幼少期の思い出を必死に脳みそから探し出して、静かなところで一人になった自分の目の前に突き出して、あなたはちゃんとまた父を好きになれると、自分の遅くて長い反抗期の暴走を止めたかった。そればかりだった。
また春だ。私は一人だ。まだ、父とは距離があるままだ。春だというのに、まだまだ冷たい風が私の頬に吹く。あのざりざりの感触と、冷えたコートの匂いが酷く恋しくなる。もうだいぶ大人になっちゃったけど、もう父に甘えるなんてことできない私になっちゃったけど、何も気にせずもう一度言ってくれないだろうか。
そしたら、私のこのしつこいプライドも恥もぜんぶ捨てて、父の冷えたコートに飛び込むのに。私の長い反抗期が終わるのに。私はこんなに毎日泣いてばかりいるのに、なんで聞こえてこないんだろう。「泣く必要はー?」って。