小学生の時に両親が離婚。
女手ひとつで育ててくれた母親に「彼氏」の存在がいることを知ったのは、中学生のときだ。

「はじめまして」
そう言ってこわばる頬を無理にあげて笑う「彼氏」に、私はわかりやすい嫌悪感を示した。

まだ思春期がこびりついた、この気怠に身体に母親の「彼氏」というのは中々受け入れられない。
それでも私の体調に反して、「彼氏」は何度もうちに遊びに来ては母の振る舞う手料理を喜んだ。

「学校は楽しい?」
「なにか困ったことある?」

「彼氏」は会うたびに私の心情を気にかけてきたが、私はそれに歯向かうような返事で場をしらけさせた。

我が家に「男」がいる、というのは、女銭湯に見知らぬ男が浸かりにきたような気持ちの悪さがあった。
だが、月日が経てばその湯加減にも慣れてきて、次第に会話も弾むようになっていった。

「彼氏」から「父親」に。生活と心境の変化

あるとき、母親から「あなたの気持ちを一番に尊重したい」と切りだされた再婚の話。
生きる時間のすべてを私に優先してきた母親と、それを長らく支えてきただろう「彼氏」の存在に私は自然に感謝の念を抱いていた。

血のつながりはない。
だけど、私の尊重というのは、母親が幸せになることそれが全てなのかも知れない。

考え尽くした結果、私の頷きと共に、正式に三人は家族となった。
  
だが、「父親」という慣れない環境にはじめは戸惑った。
下着を干すのも、着替えをするのも、今まで以上に神経を使うことになる。

「父親」といえど、「他人」であり、血のつながりがない関係性はそれを過剰に意識させる。

使わない筋肉を動かすと痛みが発生するように、慣れない環境への対応はじわじわと精神を蝕んでいく。複雑な人間関係にSNS疲れ、ホルモンバランスや、PMSも背中を押してか、私は募るストレスを「父親」に当てた。
「本当の家族じゃないのに説教すんな」と、その言葉に誰よりも傷ついたのは母親だったのかも知れない。

そして時間と共に少しづつ父と娘の関係になっていく私たち

傷つけて、時に傷つけられて、そして家族という組織を築きあげていった私たちの結び目は
本物の血のつながりを持った家庭以上に固いものとなった。

「父の日」に私ははじめてプレゼントを買った。
渡しといて、と頼んだら「自分で渡しな」と母親に断られて、仕方なく「父親」の部屋をノックした。

「これ、」と言葉が詰まってしまう私に「うん、」とどうやら向こうも同じ様子らしい。

いまいちな反応に心配をしたが、あとから母親に「お父さん、泣いてたよ。でも笑ってた」と伝えられた。

私はいまだ父親を「お父さん」と呼んだことがない。 

恥ずかしい、とか勝手な口実をつけて、思春期を抜け出せないでいる。
だから、一ヶ月後の結婚式で私ははじめて「お父さん」と手紙を読む。

きっと、血のつながりのない父親が一番に涙を流して喜ぶのだろう。

そして、その光景を当たり前のように思わせてくれる父親に伝える「ありがとう」はたった一行では足りないくらいだ。