2年前の夏、私は大学を休学した。
理由は摂食障害とうつ病。休学届を出しに行ったあの日、父は何も言わなかった。ただその帰り道に寄ったお店で一緒にカレーを食べた。

父は、陽気で根性があっていつでも希望を見ている人だった。
反対に私は、根暗で希望を見ることが怖い後ろ向きな人だった。

私たちは正反対だ。
そんな父を尊敬と共にどこか敬遠していた。あまりにも眩しい人だったから。

大学を休学し、退学を決めた私。そのとき、父がくれた言葉

休学中の約1年間の引きこもりの末、私の体調は少しばかり回復した。しかしこれからどうするべきか?大学を続けるのか辞めるのか、数ヶ月後の未来を想像した時、私は復学を選ぶことはできなかった。そして休学を続行することもまた、私の中で許せなかった。

そして迎えた進路決定最終日、今日中に「退学したい」と父に伝えなくてはならない。
刻々と時間は迫り夜を迎えてもなお面と向かって話せなかった私は、父を散歩に誘うことにした。
そして夜道を横並びで歩きながら、なんとか振り絞るようにその旨を伝えた。
即座に縮こまる私、しかし父はすんなりと了承した。
あまりにも早い返事に驚き、つい「でも、こわい」と口に出た。
「私は頑張れることしか取り柄がないのに、途中で辞めていいのかな」

そんな私に父は、
「長い人生の中で1回は大きな挫折をしておいた方がいい。それでまた強くなれるから」と言った。

2年後、元気で前向きだった父が毎日涙を流すようになった

それから2年経った今、うつ病や摂食障害はほぼ完治し、穏やかに過ごしている。
しかしそんな私と入れ替わるように、昨年の夏、父は自律神経失調症になった。

あの頃の元気で前向きな父とはうってかわり、毎日涙を流し、落ち込み、趣味だったランニングも出来なくなった父。
顔はやつれ、喜怒哀楽が表に出なくなっていた。

友人からの「お前大丈夫?」の言葉に傷ついては、ひとり不安そうな顔をうかべるばかり。
そしてただしきりに、
「家族に申し訳ない」
「本当に情けない、光が見えない」
「辛い」
「早く治りたい」
と言うばかりだった。

あの日父から貰った言葉を、今度は私から伝えたい

週に一回精神科に通い薬を飲んでも、なかなか良くならず、家でぼーっと座っている日々。
しかし、自律神経失調症の治療法のひとつとして、毎日のウォーキングがあり、1日1回は外に出なくてはいけない決まりになっていた。

私は時々父とウォーキングをした。
横に並んで歩いているものの、その間私と父は喋らなかった。
かける言葉が思い浮かばなかったから。
変わり果てた父の姿を受け入れているつもりでも、どう接したらいいかが分からなかった。
それでも共にウォーキングをし続けた。

ある日父はふと小さな声で、
「このまま精神科に通って良くなるのかな」
と話しかけてきた。

いつでも希望を見ていたい父にとって、自律神経失調症という完治のゴールが鮮明に見えない病気はあまりにも苦痛だったのだろう。
俯きながら、「こんなことになるなら、もういっそとさえ思う」と言葉を落とすように続けた。

その時、私から出た言葉は、あの日父から貰った言葉だった。
「挫折はしておいたほうがいいんだよ、強くなれるから」

底抜けに明るかった父は、今の自分が許せなかったのだ。何に対してもやる気が出ず毎日堕落していくような感覚があったのだろう。

「お前はこんなに辛かったのか」と言った父。
挫折は自分を強くする、そして他人の痛みがわかるようになり、優しくなれる。
毎日が暗闇のように思えて苦しくても、どん底でしか分からない考えや生き方に気がつけて、その経験が「強くなる」ことに繋がるから。
そう父に伝えたいのだと、私はようやく気がついたのだった。

心根は正反対。だけど、それぞれを支えた大事な言葉があった

それから数ヶ月経った今、父の状態はかなり良くなり前と同じような表情や言動を見せるようになった。

正反対だった父。同じような経験をした今もきっと心根は正反対だ。
けれど、かけたい言葉はあなたと同じ。
意味合いはそれぞれ違ったかもしれないけれど、大事なあの言葉が巡り巡って今度は父の支えになっていたらいい。

なるべく健康で、これからもそれぞれで生きていけたらいいなと、あの日の道を歩きながら、私は思った。