父に伝えたいことはない。このテーマの“父”が、実父であれば。
私は幼稚園生の頃、父と離別した。だから、伝えたいことがあるほど思い出も思い入れも無い。
別居を経て離婚、私は母ひとり子ひとりの母子家庭で育った。その境遇から、色んな人が母を手伝い、私の子育てに携わってくれた。
だから私には、もう片方の親である父代わりの役割をしてくれていた“父”が何人もいる。

運動会や家族写真の中には、私と母と、母の親友がいた

2020年のコロナ禍で、私達の結婚式は中止になった。
式を中止にする前、式の準備をする過程の中で私は、その式で招待して来てくれる人にどんなことを思い、どんなことを伝えるだろうかと考えてみた。
その中で“一般的には父と呼ばれる人と経験するのかもしれない”というエピソードがいくつもあった。

日曜日の夕方に放送されている国民的アニメで、運動会などの学校行事では両親や家族が揃うような描写を見たことがある。

実の両親ではないけれど、私も、3歳の幼稚園生の頃から12歳の小学校卒業まで、2人の親が行事に来てくれていた。私の母と、もう1人は母の親友であるふたば(仮名)。
ふたばは母の前職での後輩にあたる。幼稚園・小学校の主に運動会ではカメラマンをしてくれた。日陰を探してレジャーシートを敷いて、母が作った大きなお重に入ったお昼ご飯を私と母とふたばの3人で食べた。

私は背が低く行事全般で最前列だったが、ある年だけ私は背の順が3番目になった。その年の運動会は探しづらい撮影しづらいと2人から苦情が来た。またある年の運動会でのお遊戯では、最前列の私の目の前にお手本の先生が立ちはだかるにも関わらず、絶対にワンテンポズレてしまう私の黒歴史をバッチリ撮って残してくれている。そういう私の成長話を知ってるのも私と母とふたばだけ。

私にはお父さんはいないけど、ふたばがいた。運動会や何かの発表、それ以外にも節目になること、おそらくその時の私の一世一代という場には必ずふたばが駆けつけてくれた。
遊園地、動物園や映画にも連れて行ってくれていたから、私の家族写真の中にはふたばがいた。

血は繋がっていないし、私が大人になるにつれ距離も少しづつできたかもしれないけれど、私にとってふたばは私の成長を見守ってくれた家族。母が担うことのできないもう1人の親という父のようなパーツになってくれていた。

だから、20歳も母と2人ではなく、ふたばと3人がよかった。私が20歳になる日の予定を空けてもらい、私と母とふたばの3人で神社で祈祷を受け、母が作ったアルバムで見たいつかの七五三と同じように3人で写真を撮った。

“父”の厳しさと辛抱強さを持って接してくれた叔父

アイドルが何歳までお父さんと一緒にお風呂に入っていたのか、というのをテレビ番組で話していたのを見たことがある。
私も何歳までという程の頻度ではないかもしれないが、母以外の人とお風呂に入り、湯船に浸かって何秒か数えるということをした経験がある。
そのお風呂で私は父の役割の厳しさを垣間見た気がした。

4歳の頃、母に手術が必要となった。その期間中、隣県に住む叔父のまもるくん(仮名)の家に預けられてそこから保育所にも通った。

当時の私は湯船に浸かることならできた。けれどその先、頭から水・お湯を被る行為は断固拒否。母はそんな私を横向きに抱き、美容院のシャンプー台のようにして髪を洗っていた。これのやり方が他所で通じるわけはない。叔父の家には私より6歳上と2歳上のいとこがいる。その家でシャワーを拒否してお風呂場から逃げ出すのは私だけだった。

お風呂戦争は毎日夕食後のお風呂で1時間近く行われた。まもるくんと2人のいとこが、私のことを辛抱強く待ち、タイムリミットが過ぎたら次の日、そのまた次の日と、それは私がシャワーに慣れて自分で髪を洗えるようになるまで続いた。そのお風呂戦争は1週間はかかったらしい。まもるくんは多分、父が居ない私の父になってくれていたから、厳しく辛抱強く待ってくれていたのだと思う。

この2ヶ月の間には、他にも、母と2人だけの生活ではできないことをいくつも経験した。

保育園に行きたくないと休んだ時、言葉では何も言われなかったことをすごく覚えている。
叱られないということが逆に怖かった。人生で最初で最後のカブトムシを捕りに行く経験もした。暗い夜に両側に木がたくさん生えている道を車から降りて歩いた。日常にはない感覚でワクワクしながらも暗い外が怖かった。いとこのお兄ちゃんが虫かごに餌のゼリーを入れた時にした独特のその匂いは、私の中のTheカブトムシの匂いとして今でも覚えている。

そんな2ヶ月を過ごした後もまもるくんは会えば、優しく厳しく接してくれて色んな経験をさせてくれた。
以前のエッセイでサンタさんの話を書いたことがあるが、その時に出てきた叔父というのはまもるくんである。

私は大人になるにつれて段々と人見知りになり、親戚にも距離をとってしまい上手く話すことができなくなった。だから今は帰省のタイミングが合っても話をするかしないかくらい。

けれど子供の頃から今でも祖父母の家に帰省しタイミングが合った時には、まもるくんは買ってきた貝の網焼き番をして食べさせてくれる。その時に私がそばに行くと猫舌な私が食べられるようなものを渡してくれる。私が猫舌なことを覚えてくれていることも、そこで少し会話ができることも嬉しい。

父のいない記憶の中で感じたのは、たくさんの人からの愛だった

私は結婚式で招待して来てくれる人にどんなことを思い、どんなことを伝えるだろうかと考えた。
その時、私は、私の人生は、とても愛されたものだったと気づいた。
だからひとりひとりに、今まで伝えることのなかったありがとうの感謝を伝えたかった。

ここに書いたのは私が愛された一部の時間のこと。
でも、少なくとも、ふたば、まもるくん、そしてここに書けなかった他の何人もの人が、私の父のいないその時間を愛を持って埋めてくれたから、私は寂しいと思ったこともなかった。

寂しいと思うどころか、振り返った時にあったのはたくさんの愛だった。
結婚した私が今、父のいないたくさんの記憶に思うこと、それは、たくさんの言い尽くせないありがとうだった。