夕食後、私は自分の部屋に戻り正座をする。
「今晩はお父さんが怒りませんように。暴れませんように」
両手を合わせながら3回唱えた。
これを小学校低学年の頃、毎晩おこなっていた。神さま、いや誰でもいいから、きっと私のことを見てくれていて、助けてくれるだろうとすがるように。今思うと、強迫性障害のようなものかもしれない。
社会人になり、父の存在が薄くなって仕事に没頭する日が続いた
父は仕事から帰るとすぐに晩酌を始め、2時間ほどで酩酊状態になる。母や私が思い通りにならないと怒りが爆発し、大声で怒鳴ったり、物を投げたりした。一人っ子で兄弟姉妹がいないこともあり、恐怖を分かち合うこともできなかった。
高校~大学時代は父が単身赴任になり、物理的、心理的に距離を取ることができた。
ただ、私が大学卒業のタイミングで父が家に帰ってくることになり、就職が決まった私は一人暮らしを始めた。父と会うのは年一回ほどになった。両親のことよりも仕事のことで頭がいっぱいだった。
数年後、母から離婚を決めたと報告があった。父との二人暮らしに耐えられなかったようだ。離婚後は母とは時々会っていたが、父とは何度かメールのやり取りをしただけだった。
母は父との連絡は断絶していたようだ。私の中で父の存在が薄くなり、仕事に没頭する日が続いた。
そんなある日、母から留守番電話が入っていた。私はちょうど出張中で、訪問先のビルのエントランスで聞いた。
「お父さんが死んだって……お父さんの住んでるマンションの管理会社から電話があって、死後結構経ってるから、警察に運ばれたみたい。私はお父さんと離婚してるから、身内のあんたから連絡欲しいって」
父が亡くなったという事実だけが、頭の中で宙ぶらりんになった
状況が飲みこめなかった。もう一度聞き返して徐々に意味を理解していった。
気づいたら過呼吸状態で涙があふれていた。悲しさよりも、突然のことでパニックになったのだと思う。
飲酒が原因で糖尿病を患っていたものの、まだ60代であったため、あまり父の健康状態を深刻に捉えていなかった。
父と最後に話したのはいつだっけ、どんなことを話したんだっけ……思い出せなかった。
父がこの世に存在しないのだということが怖くて、その日は仕事を終わらすことに没頭した。父が亡くなったという事実だけが、頭の中で宙ぶらりんになっていた。
翌日、警察へ行き、発見した時の様子や死因がアルコール性の肝臓病であると聞いた。死後数日経過しており、最後に父の姿を見ることはかなわなかった。
その後は、仕事とその合間にしなくてはいけない警察や葬儀などの手続きで精一杯だった。死と向き合えぬまま、淡々と毎日が過ぎていった。
ストレスや生きづらさを麻痺させるためのお酒だったのだろう
父の死から約2年。私の中で父に対して疑問ばかり浮かんでくる。
「どうしてお酒に飲まれる生活になってしまったの?」
「何に悩んでいたの?」
そして「どうしてもっと父に歩み寄らなかったんだろう?」と自問自答した。
父の過度な飲酒は、ストレスや生きづらさを麻痺させるためだったのだろう。外で自分を押し殺していたのだと思う。
かく言う私も、自分の考えや思いを人に伝えるのが苦手で、人の顔色ばかりうかがっているタイプの人間だ。こんなところで、父のDNAが流れているんだなと感じるのであった。
当時はただの酒好きとしか思えなかったが、父の苦しさを理解してあげられなかったことが心残りだ。
「お父さん、私は社会人になってお金を稼ぐことの大変さ、社会で生きていくことの難しさを知ったよ。
子供のころは、大人は自由で、無敵で、なんでもできる人だと思っていたんだ。だから私も早く大人になりたいと思っていたよ。
だけど今なら分かる。大人だって人間だもんね。お父さんにもたくさん悩みがあって、生きづらさを抱えていたんだね。お父さんがつらいとき、手を差し伸べてくれる人が身近にいなかったんだね。
今ならお父さんの話をゆっくり聞ける気がするんだけど……遅くなってごめんね」
父のことを考えると、一人で最期を迎え、見届けられなかった罪悪感や後悔で苦しかった。
だけど、私の頭の中には父と過ごした記憶がある。お酒を飲んでいない時の姿も覚えている。その記憶の中にいる父とはいつでも会うことができる。
後悔ばかりして、心を閉ざすのではなく、その記憶を反芻しながら生きていくことが少しでも父への孝行になると信じたい。