私の父は、かなりのヘビースモーカーだった。
換気扇の下で、椅子に座って煙草を吸っている母と、その隣に立って煙草を吸っている父の姿をよく覚えている。
吸っている間は、私は絶対に台所には入らせてもらえなかった。
それでも、遠くから話す私と姉の話を、2人で微笑みながら聞いてくれていた。私はその時間が大好きだった。

高校生になっても、家族と父の手の取り合いをした。誰もが愛した父

でも、小学5年生の時、ヘビースモーカーだった父が煙草をやめた。子どもだった私はやめた理由を知らなかった。
換気扇の下には、母だけになった。

週末は、父と出かけることが多かった。
わざわざ大雨の日に、「車の中が食洗機みたい!!」とケラケラ笑いながらドライブもした。
私がギターをやりたいと言ったら、「いつか子どもにあげるために取っておいた」と父が使っていたギターを倉庫から出してくれた。
父が作るご飯はいつもキラキラしていた。肉団子は、大きくて食べづらいけど、家族みんな大好きだった。
母と姉と、「誰がお父さんと手を繋ぐか」よく言い合いもしていた。
父は誰からも愛されていた。

高校生の時、母が「お父さんがそろそろ外で手を繋ぐのをやめた方がいいんじゃないかって、気にしてたわよ、外で学校のお友達に会ったりするでしょ?」と言っていた。
私は「なんで?お父さんと手を繋いで歩くのの何が悪いの?」と、次の日からも変わらずに、家族と父の手の取り合いをした。

高校3年生の7月までは、いつでも父の両隣には母と、姉と私がいた

そんな日々も、私が高校2年生になってから変わっていった。彼氏ができて、部活やバイトに追われて、父から週末に「どこかいこう」と誘われても「疲れてるからいい」と断ることが続いた。
それでも、たまに出かけた時に、手を繋ぐことは変わらなかった。いつでも父の両隣には母と、姉と私がいた。

高校3年生の7月。
父が脳出血で倒れた。夜中だった。
部屋から小さい声で「おーい、おーい」と聞こえる。何故かその時は、家族全員飛び起きた。
お父さん……と呼んだ声と、父が「大丈夫だから」と言った声が重なった。
1週間後、1度も目が覚めることなく父は亡くなった。
それからの日々はあまり記憶にない。
気づいたら、嫌でも巡ってくる日常に、押し潰されそうになっていた。

後々、母から、父が煙草をやめた理由を聞いた。お昼ご飯も、外食からお弁当に変えていたことも。
お酒を控えていたことも、年々飲む薬が多くなっていたことも。
気づこうと思えば、気づくことができたと思う。
彼氏やスマホ、テレビや遊び、今思えば薄っぺらいものに囚われて、父の存在が、父との時間が、永遠にあるかのように、いつの間にか大事にしなくなっていた。

気づかなかったお父さんの愛が、今の私を生かしてくれているよ

寂しい苦しい悲しいつらい。
他人と同じ言葉でしか表現できないことに腹立たしささえ覚える。
感情の大きさそのままを伝える術を私は知らない。
何が「大丈夫」だったのだろう。
私は、父が最後に言った「大丈夫だから」をこれから死ぬまで探し続けるのだろう。

あのね、お父さん。
お父さんがやめた煙草を、私、やめられなくなっちゃったよ。

あのね、お父さん。
ずっと聞きたいことがあるの。ずっと言いたいことがあるの。

私が娘で幸せだった?
私は、お父さんが私のお父さんで世界一幸せだったよ。

高校を卒業したことも、
第一志望の大学に合格したことも、
20歳の誕生日も、ずっと働きたかった場所に立てるようになったことも、
この先私に訪れる節目節目も、
もう一生伝えることはできないけれど、私は幸せだったよ。
気づかなかったお父さんの愛が、今の私を生かしてくれているよ。

お父さん、愛しています。