日曜日の23:50。湯船の中、自分の身体を見つめた。柔らかく、すべすべとして、キメの整った肌。長く真っ白な、でも、お湯の中で薄桃に色づいた手と脚が、すらりと伸びている。

私が花なら、今、こぼれ落ちんばかりに咲き誇ろうとしている八分咲き。そして、誰にも見つめてもらえぬまま、満開を迎え、散って行く山桜。そんなことを考えた。
ぽたり、凪いだ水面が揺れた。

私は恋人がいたことがない。好意を寄せた人は、別の女の子を選ぶ

私には、恋人がいたことがない。恋をしたことはある。恋をされたことも、あったと思う。それでも、私が好意を寄せた人は、最後には別の女の子を選ぶ。

もう何百回も何千回も、私の何がいけなかったのか、考えた。素直に甘えられない勝気な性格か。大抵のことは自分でできてしまうが故に、隙を作ることができない不器用さか。他の女の子より頭一つ飛び出た、女性としては高い身長か。

とはいえ、私は私自身が嫌いではない。負けず嫌いが功を奏し、趣味も勉強もある程度のレベルまでもって来られた。何か新しいことに挑戦したいと思った時も、できようができまいがとにかくやってみようと道を切り拓いてきた。すらりとした長身は、小さい頃こそコンプレックスだったものの、似合う服が分かった今では自慢のスタイルだ。

ただ、こういう“強い女”は、どうやら需要が低いらしい。だから、私が好きだったあの人たちは、最終的にはもっと小柄でふわふわとしていて、守ってあげたくなるような女の子を選んだ。

この白く美しい身体は、誰にも触れられず、花の盛りを過ぎようとしている。そうやって、人知れず涙の滲む夜を積み重ね、私は“女性としての私”への自信をなくしてしまった。

写真の中の私は「私だけの美しさ」をもって、私に笑いかけていた

そんなある日、急遽、ポートレート写真が必要になった。自分でヘアメイクをして、部屋の壁を背景に家族に撮ってもらえば事足りるものではあった。それでも、私は思い立って、銀座の化粧品店のヘアメイク付きのフォトプランを予約した。

多くの人に見られる写真だから、写真写りの良くない私でも、“奇跡の一枚”を撮ることができるかもと冷やかし半分、期待半分。こんな機会でもなければ、大枚叩いて写真を撮ろうなんて思わないし、と言い訳をしながら。

そうして、有給を取った水曜日。大人っぽく綺麗な写真を撮って欲しいとオーダーした。丁寧にファンデーションを塗られ、髪を根本からブローされる鏡の中の私を、ずっと見ていた。

そして柔らかな空気の中、メイクと撮影が終了し、モニター越しに微笑むたくさんの私を見つめた。私は、美しかった。

自分の容姿について、特段悪いと思ったことはなかった。ただ、男受けのするタイプではないのだろうと。しかし、画面の中の私は、どんな芸能人ともモデルとも違う、私だけの美しさをもって、私に笑いかけていた。

柔らかな微笑みを湛えた口元も、笑うと右の目尻にしわの寄る祖母に似た目元も、すんなりとのびる母譲りの鼻梁も、全てが完璧に調和していた。そこにいたのは、誰が見ても美しい人で、見紛うことなく、私だった。

私は私にしかない「美しさ」をもっていて、他の誰かとは比べられない

そして、また日曜日。あの日を境に“女性としての私”への自信を取り戻したのかというと、残念ながら事はそう簡単ではない。友達の結婚話を心から祝福しては、湯船の中で自分を抱きしめ、寂しさと不安で涙を流す。恋人も、相変わらずできる気配はない。

それでも、私は私にしかない美しさをもっていて、それは過去の恋愛や、これから失敗するかもしれない恋愛ごときに否定されるものではないとわかったから。私は、他の誰かとは比べられない私だから。

だから、“誰か”の愛を得られないと嘆く前に、まずは私自身が、この美しい私を、全力で愛してあげたい。そう、例えば今夜は、涙の残る目尻に優しくクリームを塗って、明日は笑えるようにいたわってあげたり、ね。