大学最後の夏、私は、芝生の上に寝転ぶ美女のスカートの裾を整えていた。

「足首はもう少し内側にしならせて」「膝は、気持ち少し上向きに」と細かく指示を出しながら、私はシャッターを切り続ける。

学生時代思い出作りに美女のポートレート撮影をするサークルに入った

私は以前から趣味だったカメラのスキルを磨こうと、美女のポートレート撮影をするサークルに加入した。昔から女優や女性アイドル、女性アナウンサーなど“美女”が好きで、憧れを抱いていた私にはうってつけのサークルだと思ったからだ。

学生時代最後の思い出作りにと、思い切って門を叩いた。ふたを開けてみれば、私以外は全員男性だったのだが。

私の被写体となってくれた美女たちは、華があり、自信に満ち溢れているが、それが全く嫌味ったらしくない素敵な方々だった。ありとあらゆるミスコンテストで入賞し、その美貌で多くの人々を魅了し続けている、まさに、筋金入りの美女だからだろう。初対面の私との撮影でも、自分が最も美しく映る角度、ポージング、表情を瞬時に引き出してくれる。

しかし、多くの美女を撮影するうちに、私はどこか違和感を抱くようになっていた。それは“美しすぎて、人間味がない”ということ。

写真を見ると、どのカメラマンが撮影しても隙がないことに気づいた

彼女たちの写真を見ていると、1枚も“はずれ”がない。SNSを見ていても、どのカメラマンが撮影しても決して隙がない。もちろん、写りが悪い写真をわざわざ掲載する必要はないのだけれど、私は彼女たちの完璧さが恐ろしかった。

「この子は好きな人に片思いをして悶々としたりするのかな?」「美女だから、そもそも片思いなんてしないのかな?」「僻まれて、孤独を感じたことはないのかな?」「顔をくしゃくしゃにして爆笑したり、号泣したりしないのかな?」「そんな顔が見てみたいな」こんな思いが出てた。

そこで私は撮影中、彼女たちにたくさん質問をした。「今日、陽射しが強いけれど、普段どんな紫外線対策をしているの?」「勝負デートにつけていく口紅は、どこのブランドのもの?」「あ、知ってる。それキスしても落ちないティントだよね」「もし、菅田将暉と吉沢亮と坂口健太郎に、同じ日に食事へ誘われたら誰を選ぶ?」こうやって少しずつ緊張をほどいていくと、彼女たちの鎧が次第にしなやかな羽衣へと変化していく。力が抜けて、自然な表情を見せてくれる。

私はそんな瞬間を見逃さない。シャッターを切り続ける。私のやり方は、彼女たちにとっては不本意かもしれない。けれど、困ったように考え込む姿や、口角を緩めてリラックスしている姿すら、美しいと思ったのだ。

美女は自分とは「異なる世界の住人」だと思い、本質を知らなかった

撮影後、何人かの美女たちと連絡先を交換して食事をしたり、買い物をしたりするようになった。街を歩けば、誰もが私の隣にいる美女を見て振り返る。心なしか、私まで誇らしかった。

しかし、ある言葉に衝撃を受けた。「運営に臨ちゃんがいてくれて良かった。撮影もとても面白かったし、女の子だけどパワフルだし。でも、細かいことを気にかけてくれているのが伝わってきた」と。

そのとき、私は気づいた。私は“美女”の本質を知らなかったということに。崇めていたと言えば聞こえはいいが、要するに自分とは異なる世界の住人だと認識していた。もっと言葉を選ばずに言ってしまえば、差別していたのである。

私は彼女たちの人間らしさに触れることで、安心したかったのだ。美女は、必ずしも幸福ではない。同性から僻みの対象になったり、異性から不本意な消費をされたり、魅力的であればあるほど矢面に立ちやすい。それでも輝きを放ち続ける強さの裏には、繊細な一面や孤独との葛藤がある。

つまり私は、彼女たちの弱さを自らのコンプレックスに紐づけていた。それは紛れもなく、“美女”に対する冒涜だったのだ。