“日常があってこその非日常“
日常の定義や過ごし方は、人それぞれだと思う。

私にとっての日常は働くことであり、働いているからこそ休日を非日常として楽しむことが出来ている、と日々感じている。

日常と非日常の時計の針は、本当に同じ速さで動いているのだろうかと疑いたくなるほどに非日常(休日)は充実していた。

働くことが常とされている日本人、とくに20代である同世代の方々では私と同じような日常を送る人も少なくないと想像ができる。

診断を受けて仕事を休むことになり、7か月の長期休暇を経験した

しかし、私はいつもと違う感情で過ごす休日を経験することとなった。
それは、数日ではなく7か月という長期休暇だ。

望んでその休日を手に入れたわけではなく、考えることの90%が仕事のこと、と言えるほどに日々仕事に追われていたが故に精神疾患の診断を受けたからである。

もともと他人軸で生きている私。自分の意思がない私。
「あなたが本当にしたいことは何?どうしたいの?」と尋ねられたら困るのだ。

その結果、私は必ずと言っていいほどに多数派に所属している。
その選択を後悔することはない。周りの意思が私の意思だから。

診断を受けて仕事を休むことになった私は、会社に行って働くという日常が変わり、それは多数派から自分が離れた瞬間だった。その瞬間から不安や休んでいることへの罪悪感が生まれた。
罪悪感によって外に出ることすら難しく、ただ時間だけがゆっくりと流れるだけの休日を過ごした。もちろん、楽しい気分になったり、充実していると感じることはなかった。

私のどんな選択も、尊重してくれる人がいることに気づいた

しかし、そんな日々を抜け出し、有意義な休日にすることが出来たのは、私に外へ出るきっかけをくれる友達の存在や一緒に働いていた先輩や同期の優しさだった。

休み始めてからは、働いていない自分を卑下していたが、それでも友達は連絡をくれるし、遊びにも誘ってくれるのだ。さらに、職場の人たちも復帰するのを待っていると連絡をくれる。

私がどんな選択をしたとしても、周りには私の意思を尊重してくれる人がいることに気づき、嬉しく思った。

そのことに気づくことが出来てから、徐々に不安や罪悪感は消えていき、自分のやりたいことをしようと思うことが出来た。時間は限られているのにも関わらず、自分のやりたいことを無視して、周りの意見に流されては一体、自分が自分である必要はあるのか、存在意義はあるのか、と自分に問いたくなった。

自分には自分にしか出来ないことがあると思うようになった私は、昔から得意だった文章を書くことをエッセイという形で残している。これが、自分だけの意思を他の人に伝えることにもつながると思うから。きっとこれが、自分が自分でいられるための方法なのではないかと思う。

自分は自分。選択するのは、他人ではなく自分しかいないのだ

悩みや仕事で充実した休日を過ごすことが出来ていないと思っていないだろうか?
仕方がないことと自己完結をして、自分の意思を無視していないだろうか?

私も最初はそうだった。みんなやっていること、と多数派の意見に寄せていたのだ。
しかし、自分は自分。頑張りのハードルも人それぞれ違うのだ。

自分が本当にやりたくないことだったら、自分のためにそれを手放してもいいと思っている。これは甘えでも何でもないと思う。やりたくないことに時間を費やすことにそれほどの価値があるのだろうか。自分の得意なことは必ずある。それに気づけるのも、それを選択することができるのも、他人ではなく自分しかいないのだ。

そして、きっと誰にでもいる。選択を迫られたときに、どんな選択をしたとしても意思を尊重してくれている人が。

今までの休日は、誰と何をするかによって充実感が決まっていたが、この長期休暇を経て、自分がどんな気持ちで過ごすかが大事だと感じた。

私は、これからの人生においても大切なことに気づくことができた休日を過ごしたのだ。
それだけで、何よりも価値があって、充実した休日だった。