私が幼稚園の年長だった頃、両親が離婚した。離婚直前の2年間、両親と私の3人は、富山県で暮らしていた。離婚を機に、母と私は、富山県を後にした。

社会人1年目の冬、母と2人で富山県へのタイムスリップ旅へ

 社会人1年目の冬、ボーナスをはたいて、母と2人、約16年振りに富山県へのタイムスリップ旅を計画し、実行した。
 入社半年が経過し、初めての有給休暇取得の機会とも重なった。上司に、有給休暇を取得したい、と伝えるには、勇気が必要だった。体調不良でもないのに、会社を休みたい、と社会人の先輩方に話した時の反応が、恐かったからだ。だが、事情を説明すると、
「親孝行のためなら、私は賛成する。行ってきなさい」
と、背中を押してくれた。拍子抜けする位、あっさり認めてくれて、ありがたかった。
 もう一点の心配は、希望の日が月曜日だったことだ。以前、飲み会の席で他部署の部長に、
「月曜日に休むのは避けた方が良い。他の出勤しているメンバーの士気が下がる」
と言われたからだ。その点も、直属の上司に相談すると、
「もし、部長達が文句を言ってきたら、私が説得するから、大丈夫」
と、安心させてくれた。当時、私にとって直属の上司は、恐ろしい存在だった。
 しかし、新たな一面を知り、頼りになる存在だと気付いた。上司の後押しもあり、無事に「いつもと違った、特別な休日」を手に入れることができた。

住んでいた家を訪問。短期間でもここに「幸せ」は、確かに存在した

 富山旅行では、はじめに、以前住んでいた家を訪問した。現在、誰が住んでいるのか不明な場所を訪れることには、緊張した。最寄りのバス停に到着すると、周辺地図があり、元自宅に位置する家は、空き家だった。徒歩で家に向かった。中に入ることはできなかったが、敷地内をぐるりと歩き回り、中の様子も覗いた。
 母や私が去り、父もどこかのタイミングで引っ越しをし、後に他の家族が住んでいたか否かは、知る由もない。だが、閑散とした家は、まるで時間が止まっているかのようだった。
 母の日に、父と一緒に立った台所。大きな勉強机が届き、私の部屋に運ばれた後の、写真撮影。両親と私の「3人家族」で過ごした日々の思い出が、そこには詰まっていた。
 幸せを感じる時間の長短は、それぞれに差があったに違いない。だが、理想的な「家族の形」、短期間であっても、一軒家で過ごす中で感じた「幸せ」は、確かに存在した。

「縁」があり出会えた土地や人々への感謝の気持ちは、忘れてはならない

 次に、当時通園していた幼稚園を訪問した。私は、卒園式に参加できなかった。卒園より前に、両親の離婚が決まり、母の地元に帰る必要があったからだ。今でも、母に連れられて電車に乗り、目の前で電車の扉が閉まり、ホームが見えなくなるまで見つめていた光景が、目に焼き付いている。
 久しぶりの幼稚園は、休日のため、閑散としていた。大通りから幼稚園までの緩い坂道や、桜の木、幼稚園バス、玄関から見える下駄箱の様子など、全てが懐かしかった。
 ピアノやとび箱の練習に励んだこと。泣きじゃくりながら、母の迎えを、先生と一緒に待っていたこと。今となっては、良き思い出達が、断片的ではあるが蘇り、貴重な時間となった。
 富山県への思い出の地巡りは、私のルーツを知る上でも、大切な、いつもと違う休日となった。表向きは「私の稼いだお金で、母と旅行」だが、内面的には「母、私、それぞれの、思い出のパズルのピースを埋めていく作業」となった。
 そっと開いた、思い出の引き出し。短期間であっても「縁」があって、出会うことができた、土地や人々への感謝の気持ちは、忘れてはならない。同時に、この「いつもと違う休日」に携わってくれた方々への、感謝の気持ちも持ち続けていく。
 喜怒哀楽のあった、過去があるからこそ、今があり、明るい未来を見つめて歩むことができていることを、肝に銘じたい。コロナウイルスが収束したら、再度、母と共に富山県を訪れ、初心に帰る機会を持ちたい。