「真面目な人こそ肩が凝る」と言われ、「だまれ」と思ってしまった

私は、万年肩が凝っている所謂「凝り性」だ。これは遺伝もあるし、普段ずっとデスクワークで且つ姿勢が悪い為しょうがないのかもしれない。だからと言って、肩が凝っているから生活に支障をきたした事はない。
2、3か月に一度マッサージへ行けば割とすぐ直る肩凝りだ。だからこそ、今までそこまで自分の「凝り性」に気にしたことはなかった。

だがある日、私は何故か急に自分の凝り性に嫌気がさした。それは、毎回マッサージへ行く度、誰かに肩を揉んでもらう度に、「肩凝りひどいねー」だとか「若いのにこんなにひどい肩凝りは見たことない、まずいってー」とこんな事を言われすぎて、たとえそれが営業トークだとしても私の心に何故かグサッと来るものがあった。

自分の肩凝りの酷さに対する言葉を投げられる度に、自分の「真面目さ」を否定されているような気がした。
ある人から「真面目な人こそ肩が凝るんだよねー、いつも気が張っちゃってさー」……。
「だまれ。」
私はこう心の中で呟いてしまった。別にその人は私に対して嫌味で言ったわけでもなく、あくまでもその人の考えで言った事だが、私には何故か気が障ってしまった。

不真面目に過ごしたことがない私は、肩の力の抜き方が分からない

私は昔から「真面目なのになんで〇〇出来ないんだろう」だとか「真面目だけが取り柄だよねー、Emmaは」とばかり言われてきた。それもあってか、物事を深く考えすぎてしまったり、逆に深く考えた方が良い事を後回しにしてしまったりと、要領の悪い人になってしまった。

それもあってか、私は自分の「生真面目さ」がコンプレックスで堪らなかった。先輩には、「もう少し気楽に生きなよー」だとか「Emma、いつも考えすぎー、肩の力抜いてー!!」と散々言われてきた。

だが、「真面目って何?」こういつも思う。
世間一般で考える「不真面目さ」が私には分からないからこそ、今まで生きてきた中で「不真面目」に過ごした事がない。と言うよりも、どう不真面目に生きれば良いのか、分からない。誰かに教えてほしい。

根が真面目過ぎるからか、私は思いっきり遊ぶことが出来ない。常に先々の事を考えてしまい、たとえ朝まで飲み明かしても仕事に遅れたことは、授業の1限に遅れた事は、一度もない。俗に言う皆勤賞を毎年取っている優等生なのだ。

仕事でも大きなプロジェクトに参加する事が出来たときだって、肩に力が入りすぎてしまい、失敗した経験は多々ある。力の入れ加減が分かっていないというのもあるが、根本的に私に「気楽に」「不真面目に」生きろと言われても、本当の遊びが何か分からない私が今どう足掻いて遊んだとしても、それはただの「イタイやつ」にしか見えない。

あくまでも今まで遊んでこなかったやつが遊ぶ遊び方しか知らないからだ。

十人十色の生き方がある。それを否定したり、馬鹿にするのは違う

「肩凝っているね」と言われただけで、何もこんなに深く考えているのだ、と思われるかもしれないが、本当にその通りだ。私に肩凝っているねと言ってきた人たちも、悪気があるわけでもなく、あくまでも「助言」として言ってきただけなのかもしれない。

だからそう深く考える事でもなさそうだが、次また「肩凝っているね」と言われたら、こう返したい。 
「凝ってますけど、何か?真面目に生きてきましたが、何か?」
というのは冗談だが、散々真面目だと言われてきた私が今できる事は、この真面目さを突き通すしかないかと思う。だってそっちの方が、人に言われて遊ぶよりも数百倍カッコいいし。

「十人十色」という言葉がある様に、人には人それぞれの遊び方、生き方があっていいと思う。それを否定したり、馬鹿にしたりするのは、少し違うと思う。
若いうちに遊べとか、もうそろそろ真面目に生きろとか、それはあくまでも世間一般の考え方であって。誰がいつ、誰とどれだけ遊んでも他人には関係ないよね。

そんなことより、「肩が凝っている」イコール「真面目」というステレオタイプ、本当になくなっていいと思う。
本当に遊んでいるやつは、遊びすぎて寝不足で肩だって凝るから!!
これが本心だ。