私は小学生の時から大学生の今に至るまで学級委員、生徒会長、サークル長を務めていて、周りからは真面目、しっかりものというイメージを持たれている。
確かに真面目な面もあるけれど、私はだらけるときはだらけるし、家族からは「生活能力がない!」と言われるような人間なのだ。だから、友人や教師からのイメージは過剰評価な見られ方だと思い続けている。
「そんなことないよ」真面目と言う言葉を、褒め言葉と思えなかった
このような過剰評価を受け始めたころは、「そんなことないよ」「私なんて家では不真面目ですよ」などと、他の人からのイメージを否定して、謙遜するようにしていた。
この裏には、いくつかの思いがあった。
当時の私は、真面目という言葉をまっすぐに誉め言葉としてとらえられずに、頭の固い奴だと思われていると誤解していた。それに、必要以上に真面目だと思われていると、何気なく出た素に幻滅されてしまうのではないかという心配もあった。
しかし、高校生に上がったときに転機が訪れる。高校でも生徒会役員になり安定の過剰評価イメージを持たれていた私が、部室に落ちていたゴミを足で拾ったのだ。
私からしてみればゴミを手で拾うよりは、足のほうが楽だし汚れないという発想の元だったのだが、友人からしてみれば意外も意外だったようで、とても驚いていた。
そして友人はこう言った。
「そんな一面があって安心した!しっかりしてて、そういう抜けたところもあるんだね!」
真面目なことも悪くない。私の真面目と不真面目は共存できる
「しっかりしてるのに」ではなく「しっかりしてて」。過剰評価な真面目な部分と、私の素の中にある不真面目な部分は共存できるのだと、ここで気づいた。
そして、不真面目な部分を見てなぜか嬉しそうな友人を見て、これまでの意地を張っていた部分とか心配に思っていた気持ちがほぐれていった。
この出来事をきっかけに、私は謙遜を控えるようにした。私の素の部分も受け入れてもらえるという意識が、むしろ自分に自信を与えたのだ。
真面目なことも悪くない。むしろ、あの友人が私に真面目だというイメージを持っていたから、もっと仲良くなれたのだ。だから「しっかりしてるよね」と言われたら、「ありがとう」と受け入れて返すようにしている。
過剰評価を成長のきっかけに。真面目は今の私にとって武器だ
それだけではなく、みんなからの過剰評価に追いついていきたいと思うようになった。かつての私にとって真面目はコンプレックスだったかもしれないが、今の私にとっては武器だ。過剰評価だと思っていた周りからのイメージは、私にとっての理想形になりつつある。
例えば「大人の人と話しても緊張しなさそう」というイメージを持たれたことがあった。
このイメージが実現できればかっこいいし、より自分のことを好きになれそうだと思った。だから、ビジネス電話のマナーを調べるようになった。
例えば「上品な言葉遣いをしていそう」というイメージを持たれたこともあった。
これも実現できれば、より自分のことを好きになれそうだ。
だから、略語を使うことを控えるようになったし、正しい日本語に敏感になった。
このように今の私は、過剰評価を利用して自分の見せ方を工夫している。
そして、過剰評価を受けることを成長のきっかけだと捉えられるようになったことで、過剰評価な見られ方も悪くないと思うようになった。