「生理用ナプキンは一目につかないように、コンパクトな巾着袋やポーチに入れて持ち歩きましょう」小学校高学年の頃、教室に女子生徒だけを集め、先生は私たちにそう言った。

“人目に付いてはいけない”、“ひけらかさず隠さなければいけない”。生理とは、女性にとってそういうものなのだ。まだ初潮を迎えていなかった私は、子供ながらに疑念を抱いたのを覚えている。

好きで生理になるわけではないし、悪いことではないのに隠している

好きで生理になるわけではないし、別に悪いことではない。人間はその他の動物とは違い、大人になるにつれて身体的にも精神的にも、隠すべき部分がどんどん増えていく。

そして、それは男性よりも、圧倒的に女性の方が多い。社会や無意識に植え付けられた道徳心・倫理観により、そうすることが当然だと自分の常識に組み込まれる。その傾向は、年々加速しているように感じる。

例えば、江戸時代の日本では公共の場で女性は隠すことなく、堂々と赤子に乳をやっていた。その風景に、誰も違和感など持たなかったのだろう。もし、現代の街中で授乳のために女性が乳を丸出しにした暁には、通行人たちは二度見、いや五度見くらいすると思う。

社会の“常識”は、時代と共に活発に活動し変化し続ける。常に自分はどうなのか、定期的に自分の常識を疑うことは柔軟に世界と共存する上で、必要なことなのだとも思う。

そう思う一方で、「そんなの不公平じゃないか!」と叫びたがっている自分もいる。夏場のブラジャーの締め付けや、重い生理痛の壮絶さを知らない男性諸君に、“束縛される辛さ”なんか語られてたまるかと、まあ性差別主義者呼ばわりされても仕方ないような思考になることだってある。

生理がなければ気楽だろうと思うこともあるけど、「メリット」もある

初潮があったのは、中学2年の時だった。今年29歳になる私は、もう人生の半分以上を月一の生理と共に生きている。我ながら、上手く付き合えていると思っていた。

それが年々生理痛はひどくなり、初日に至っては立つこともままならない程の体調不良になるときもある。もう痛み止めなしでは、耐えられない痛みになった。

生理がなければ、どんなに気楽だろう。そう思うこともある。けれど、生理があるからこそ得られるメリットもある。

大袈裟に表現するならば、女性は生理の度に生まれ変わる。嫌なことも、元カレへの未練でさえも、うまくいけば生理と共にリセットできる。確かに友人や知人の中でも、立ち直りの早い人のほとんどが女性だ。

女系一家で育った私は、物心がつく前から「生理」に憧れていた

女系一家で育った私は、物心がつく前から「いつか私にも生理になる日がやってくる」と分かっていた。姉たちの真似ばかりしていた私は、一足早く初潮を迎えた彼女たちに追いつくべく、その日が来ることを心待ちにしていた。

目で分かる成長。それは人間として、そして、女としての大きな成長の印だった。

生理への憧れの起源は、私の幼稚園時代にまで遡る。母はその日のエピソードを、今でも爆笑しながら語り継いでいる。ようやくおまるを卒業し、一人で用を足せるようになった頃。

私は自分のパンツに小さな赤く細い染みを発見し、「あ、時がきた」と悟った。生意気な声で「お母さん。私、もう生理になったから」と言うと、母は笑いを嚙み殺しながら、「えーっと、うん、これはちょっと赤い糸くずが付いてるだけで生理じゃないね」と言った。

早熟な子は、小学校に上がる前でも初潮を迎えることがあると聞いたことがあるけれど、私は早熟なわけではなかった。
 
これ程煩わしいと思っている生理に、あれ程憧れていた時期があったのだと思うと、なんだか生理が“戦友”のように思えて来た。心身の成長を共に生き、酸いも甘いも一緒に潜り抜けてきた戦友。

いつもありがとう、生理。これからはもう少し方の力を抜いて、楽に生きてくれていいんだよ。