「もうダメだ」彼の腕に抱かれる私の右手の薬指には指輪が光っていた

「ノル チョアヘ」
あの日、私のアパートでテーブルに向かい合って座った彼は、私の目をまっすぐに見つめて、そう言った。
え、今、なんて言ったんですか。
私がそう言うと、その人は少しはにかみながら、今度は日本語でこう言った。
「あなたのことが好きです」

ああ、もうだめだ、と、その時思った。それまで長い間狂ったまま、辛うじて回り続けていた私の中の歯車が、とうとう根こそぎ外れてバラバラになった気がした。キスされて、気がついたらベッドの中で彼の腕に抱かれていた。
窓から漏れてくる月の光の中で、右手の薬指の、彼氏とお揃いの指輪が光っていたことを覚えている。

そう、その時私には、3年弱付き合っていた彼氏がいた。彼とは大学3年生の時に交換留学先で出会った。

シンガポールから来た留学生だった彼は、背が高くて、メガネをかけて、日に焼けて、笑うと左右のほっぺたにえくぼができた。出会った瞬間から、彼は私の初恋だった。

そんな彼との関係には、しかし、かなり当初から綻びがあった。
彼は感情を表現するのが苦手で、例えばケンカをするととたんに無口になる。一定時間パソコンに向かい、文章にして書くことで怒りの感情の処理をする。
それが終わると何事もなかったかのように部屋から出てきて、元通りの彼にもどる。

もちろん彼とこのことについては何度も議論をした。
彼の言い分は、怒りに身を任せて傷つけることを言いたくないから、一人で気持ちの整理をしているのだ、ということだった。

なるほど、じゃあこれはあなたなりの優しさなのね。でも、私は、まるっきり信用されていないように、拒絶されているように感じるのよ。
言語の壁もあって、なかなか気持ちが通じ合わないのがもどかしかった。

彼がケンカのたびにパソコンに吐き出していた本音を読もうと思った

そんな日々を送る中で、ある日決定的な事件が起こった。
あれはたしか付き合い始めてから4ヶ月頃のこと。その日も些細なことでケンカをした。
その日私は彼のパソコンを借りていた。自分のパソコンが壊れていて、課題をやるために貸してもらっていたのだ。

もう彼とは近いうちに別れるだろう。初めから感じていた違和感が日に日に大きくなっていく一方の彼との関係に、私は終わりが近いことを感じ取っていた。
だから、彼が今までケンカをするたびにパソコンに吐き出していた本音とやらを読んでやろう、と思ってしまった。

ドキュメントのフォルダを探すと、日付だけのタイトルがついた文書が出てきた。心臓がバクバクした。これを開いたらもうこの関係は本当に終わりなんだな、と思った。
そして、震える指で、ダブルクリックした。

一時期は悔しさと悲しさで、一字一句空で言えたその文書だったが、今はもうぼんやりとしか思い出せない。そこに書いてあった内容は、こうだった。
自分の人生には、二人の素晴らしいAとCという女性がいる。そして二人のいいところは……と、永遠に続く二人のいいところリスト。

でも、自分はそのどちらとも付き合っていない。自分が付き合っているのはKで、Kの取り柄といえば可愛いだけ、英語もろくにしゃべれないから薄っぺらい会話しかできない……。
なんでKなんかと付き合っているんだろう、という言葉でその文書は締めくくられていた。

すぐに彼に打ち明けた。
私、あなたのパソコンの文書を読んでしまった。こんな自分のこと信用していない彼女、いやでしょう?私も、こんな文章を書いてしまう人とは一緒にいられない。私たち、別れましょう。
でも彼は私に、どうか許してくれ、あれに書いたことは本心じゃなかった、とすがった。
そして私はどういうわけだか、その要求をのんでしまったのだ。

私たちは気付けば完全な共依存関係に。泣きながら彼と過ごす日々

その日から、約3年間にわたる、猛烈な嫉妬と自己嫌悪の日々が始まった。彼と一緒にいる一瞬一瞬が、私にとっては彼にジャッジされる時間になった。
彼は、「かわいいしか取り柄がない自分」を嫌でも痛感させてくる相手であると同時に、「こんなだめな自分でも好きと言ってくれる唯一の人」になっていった。

私の嫉妬と自己嫌悪は日に日にエスカレートし、彼がAとCとの友情関係をやめなければ自殺する、と彼に電話したこともあった。もう何がなんだかわからなくなっていた。彼は彼で、悪い人ではなかったから、私をなだめるのに奔走し、疲弊していった。

お互いがお互いに寄りかかり、気がつけば完全な共依存関係になっていった。彼といるときの自分を誰よりも嫌いだったけど、幸せな気持ちにもさせてくれるのもやっぱり彼だったから、私は彼のことが好きだ、と自分に嘘をついて、自分の気持ちを嘘で塗り固めて、毎日泣きながら彼といた。

好きな人といるはずなのに、どうしてこんなに悲しくて、苦しいのだろう、と思った。

そんな時に現れたのが韓国人の彼だった。
彼氏と違って、誰と比べることもなく、私だけを見てくれるその人に、私は惹かれ、そして、彼氏を裏切った。彼氏にはすぐにバレて、3年弱続いた私の初恋は、これ以上ないくらい醜い形で終わりを迎えた。

「好きだ」と言ってくれた彼らが、どうか、今、幸せでいますように

韓国人の彼とはお付き合いを始めたけれど、精神的に依存していたシンガポールの彼にも毎日のように連絡を取り続け、当然のことながら、韓国の彼のこともものすごく傷つけて、あっと言う間に別れた。

”ある場所に長くいて、少しずつ自分に嘘をついていると、その嘘がヘドロみたいに固まって重くなってくる。それを変えるには無茶な行動をとるしかなくなる。”とよしもとばななは書いていた。
私にとっての「無茶な行動」とは、彼らを裏切ることだった。

決して自分のしたことを誇りに思っているわけではない。
ただ、あんなにも苦しくて、辛くて、何がなんだかわからなかったあの日々の中で、私は、最終的には自分で自分を守らなければいけない、と本能的に悟ったのだと思う。

本当はもっと好きでいたかったし、もっと大切にしたかった、私を好きだと言ってくれた二人の男の子たち。
どこで何をしているかわからないけれど、どうか、今、彼らが幸せでいますように、と祈りながら、今日も私はペンを執る。