「裏切らんといてな」と彼が言ったとき、この結末はもう決していたのかもしれない。
淡い憧憬を抱いて彼に近づき、彼は私のその気持ちに気付いて、いつの間にか付き合うことになった。

「裏切らんといてな」。支配的な性格をした彼の一言にあの記憶が蘇る

ほぼ毎日、仕事帰りに彼は車で私を拾い、22時や23時まで連れ回した。
彼の隣にいられて幸せだったが、どちらかというと朝型の私は疲れ、部屋は散らかりっぱなしになった。
それに加えて、やや支配的な性格の彼に対する最後の砦として、部屋にはまだ立ち入ってほしくなかった。彼がそれを不満に思っていることは承知していた。
さらには、彼が飲みに行った日など、私が早く寝てしまい連絡が取れないことに彼は不信感を募らせていた。そういう時には数分間に何十回もの着信履歴が残されている。
ある時、彼はすごい剣幕で「男がいるんじゃないのか」と詰問した。私は困り果て、信じてもらえないならどうしようもないと言って涙すると、彼は一応謝り、「裏切らんといてな」と言った。
それを聞いた瞬間、私の脳裏にある記憶が蘇った。
私はその数年前、ネットで知り合った男性と継続的にSMプレイをしていた。ある時、私が目隠しをされている間に、私の鞄がひっくり返り、中から洗面用具などが出てきた。
それを見て、プレイの相手は、私がそのあと男性と泊まりに行くのだと推測したらしく、突如、「正直に言え、これから他の男と会うんだろう?」と言って、私を拘束し、激しくベルトを振るった。
私はその時、何が起こり、その相手が何を怒っているのかもわからないまま、いつ止むともしれない痛みに耐えていた。あとから彼が言うには、当然手加減はしていたとのことだったが、私にとっては、感情に任せて振り下ろされたとしか思えない強かな打撃だった。

あの言葉を発した彼に恐怖を抱きながらも、彼と付き合い続けた

それ以来、私は、人の抱く嫉妬という感情に底知れない恐怖を感じるようになった。どんなに、私のことを愛しているからだと言っていても、ひとたび裏切りに対する疑念に支配されると、愛しているはずの相手は彼の所有物であると同時に、彼から既得のものを奪う加害者でしかなくなってしまい、彼のプライドを守るために平気で傷つけうる存在に堕する。
「裏切らんといてな」という言葉を発した彼にそのような恐怖を抱きながらも、私は彼と付き合い続けていた。
諸事情あって仕事を辞めてからは、連日のように彼が私のワンルームの部屋に泊まりに来るようになった。大学院への進学を志していた私は、賃貸を引き払って実家に帰ることもできたが、彼との生活を維持するために留まり、バイトをして生活費の足しにしながら、彼のために食事を用意し、空調に気を遣い、時々は朝から風呂を焚いた。
少しのことで機嫌を損ねる彼の顔色を窺う日々に、勉強をする時間はあまりとれなかった。それでも、彼の提案する外出や旅行に乗り気でない私に、彼は、彼が愛するほどには私が彼を愛していないと言って詰った。
愛の形が違うだけだ、という主張も十分には届かなかった。彼とは分かり合いたいと思っていたので、傷ついても口論を辞さなかった。

自分の道を誰にも邪魔されずに行くため、新生活を機に連絡を断絶

そのような生活は、進学先が決まり、部屋を引き払う直前まで続いた。
引っ越しの日、あまりにも整理されていない荷物を次々と実家に運び込むのを見ていた母を泣かせてしまった。実家に帰ってからは慌ただしく時間が過ぎ、彼との時間をとることができなかった。彼はそのことに憤慨し、夜行バスの乗り場まで送ってくれた彼の車中で私は、喉元にナイフを突きつけられているような気持ちでいた。2人で夕食をとったのち機嫌を直した彼に見送られ、私は関西を後にした。
東京での新生活が始まり、私は迷いながらも彼との連絡を絶った。もちろん、脅迫的なまでの着信履歴が残された。
憧れの人に尽くすことを喜びとしてきた自分も否定しないが、やはり私は、自分の道を誰にも邪魔させず行くと決めたのだ。