最後に彼氏がいたのは、2~3年前になる。その頃は、当時の彼氏と結婚すると思っていた。それが当然のことだと、信じて止まなかった。
生活の責任も体調が悪いときも…全部独り身は自分でしなきゃいけない
この数年の間に、わたしの友人たちは何人か結婚し、また何人かは結婚に向けて、婚活サービスやマッチングアプリを駆使して、「彼氏ができた」とわたしに報告してくれた。そして言う、「あなたもやってみればいいのに」と。
いや、言いたいこともわかる。そりゃ、誰かと衣食住を共にし、人生を共にし、病めるときも健やかなるときも、共にできる人がいることは、いろいろあるにせよ、楽しいだろうし心強い。なにより、寂しくない。
輪をかけて、いまはコロナで一層、人と会えず、距離がある。数年前より、寂しさが身に染みる時代になった。
一人だと大変なことが多い。自分で全部やらないといけない。掃除に洗濯、食事の用意やゴミ出しやら支払いやら、生活におけるすべての責任が、自分にある。今日ちょっとしんどいからあれやっといてとか、今日はあなたの当番ねとか、生活の分担ができない。
健康なときはいい。たとえば風邪をひいたり、動けないほど体調が悪くなったりしたとき、どうしよう、と独り身のわたしは時々考える。
なぜわたしが「寂しく大変な」独身のままでいるのか…それは癖のせい
いままさにわたしはその局面にいる。体調が悪いのではない、引越である。いま勤務している会社がテレワークを推奨しており、平日はほぼ、家にいる。一日中いるには手狭になった家から少し広いところに、そして、より家の近くでいろいろと事足りるところへ越すことに決めた。
いやー、引越しって一人でやると大変ですね。まず取り掛かるのに時間がかかる。やらないと結局自分が泣きを見るのだが、一人で全部やらないといけないとなると、考えただけでしんどい。引越ししようとか、思わなければよかった、とさえ思う。
誰かいれば、たとえば恋人とかいれば変わったのかな、などとしょうもないことを考えることもある。独り身は、寂しく大変なのである。
では、なぜわたしが、その“寂しく大変な”独身のままでいるのか。結婚にも積極的ではなく、恋人もいらないと思っているのか。友人のすすめるサービスに手を出さないのか。
それは気持ちを、恋人との関係性を維持することに疲れてしまったから、だと思う。人を好きになる、そして相手も同じ気持ちだと知る、そうなってもらえるように、関係を築いていくことは楽しい。知らない相手の一面を知ることが一々楽しくて、もっと知りたい、とうきうきする。
どうすれば喜んでもらえるか、どうすればもっと好きになってもらえるか、そのことばかりを考えて、行動する時間も楽しい。会えない時間は相手のことを思い、会っているときは相手のことばかり見ている。まあそうなりますよね、付き合いたてとか、まだ期間が浅い相手だと。
わたしのよくない癖なのだが、好きになった相手に全力投球してしまう。歯止めが効かない。全身で相手を好きになり、全身で相手を知ろうとする。ブレーキなんてかけない。もうそのときは、相手との結婚しか考えていない。猪突猛進に恋をしてしまうタイプなのである。
結婚はゴールはなく、関係性を保持しなきゃいけないから疲れる
最初はいい。これが3年、4年と月日が経つと、段々疲れてくる。全身を使った愛情表現もしんどい。相手にも本当に最低だけど、飽きてくる。いい加減学べばいいのに、最初からフルスロットルでは、長く、深い関係性など築けないのである。
加えて、当たり前だが、結婚はゴールではない。恋人になりたての、新鮮な気持ちや関係性を永久に保存できる魔法でもなければ、冷凍庫でもない。法的に夫婦として関係が認められるだけである。
疲れるうえに、結婚というゴールはなく、関係性はこれからも頑張って保持していかなければならない。壊れかければ修繕し、常に気配りが必要である。そういう当たり前に気づいたとき、わたしはふと思ってしまう。「この関係に、ここまでする意味、ある?」と。
もう、こう思ってしまったらおしまいである。そこからは早い。関係性になんやかんや理由をつけて、はい、終わり、となる。それを繰り返しに繰り返しまくって、もう疲れてしまった。
わかると思うが、修繕とか気配りとか、まあ大事ではあるが、それがないと続かない関係性など、もう端から破綻してしまっている。いつまでも、いつまでも学習しない。もういいかな、とも思い始めている。
なにしろ、わたしは一人で引越しだってできる。業者に頼んで、家財やこまごました荷物を、段ボールに詰めるところからやってくれるサービスに、すでに申し込んでいるから。