どうして女性にだけ月に一度、試練が訪れるのだろうか。毎月のように、情緒が不安定になり、イライラし、とんでもなく暴食になり、頭痛や腹痛に襲われ、不快感を感じ……。
それなのに、その度合いは各個人によって全く違う上に、男性には一切わかってもらえない。これを試練と呼ばずして、なんと呼べば良いのだろうか。
そして、この試練に何度も立ち向かうものの、全く乗り越えられない。きっと、子宮が役目を終えるその日まで、結局乗り越えられる日は来ないのだろうと私は薄々勘付いている。
生理の度に、「どうしてわかってくれないの?」と主人を困らせた
はじめにその試練がやってきた頃は、痛みもなく、ストレスもそんなに感じることなく、何か不便なことがあるかと聞かれたら、特になかった。プールの授業や集団行動でのお風呂を回避する言い訳ができたと、むしろ助けられていたくらいだ。
いつからだろう。痛みが強くなってきたのは。いつの間にか薬を飲まなければ、ベッドから立ち上がれなくなった。いつからだろう。どうしようなくイライラして、泣き叫ぶようになってしまったのは。
一体、いつからだろう。自分で自分をおさえられなくなったのは。そして、そのことに気づいてもどうにもできない自分に嫌気がさし、絶望したのは一体いつのことだっただろうか。
特に結婚をしてから、試練の度に、私は自分を自分でどうにもできないことに悩まされるようになった。何に対してもイライラしたり、急に涙が出てしまったり、どうして優しくしてもらえないのかと自分勝手に優しさを強要したり、それを叶えてもらえずに泣き喚いたり、月に一度発狂しては、主人を困らせた。
困らせている自覚はあるものの、それでも他人のせいにしなければやっていられないものだから、「どうしてわかってくれないの」「どうして優しくしてくれないの」「どうして甘やかしてくれないの」と、必ず喧嘩に繋がる。
子供も産まれ、月に一度の「試練」は容赦なく私を試しにやってくる
主人は「自分でどうにかできないわけはない」と言う。泣き喚いたときは、「泣きやもうと思えば泣きやめるくせに」と言う。「勝手に一人でキレているだけだ」と主人は言うのだ。困らせたくて泣いているわけではない。止められるものなら私だって止めている。自分じゃどうにもできないから助けてと伝えているのに、全くわかってもらえない。
経験し得ないことは、人間誰しも根底の部分では理解できないものだ。絶対にわかってほしいとずっと思っていた私は、主人に私の気持ちが伝わる日は一生来ないのか、と諦めの気持ちに考えが変わるまでに5年かかった。最近、ようやく諦めかける段階に入った。
それでも、まだ、どこかでわかってはくれないだろうか、とすがる気持ちは拭いきれない。子供も産まれ、できるだけ穏やかに過ごしたいと頭では思っていても、月に一度の試練は容赦なく私を試しにやってくる。そして、案の定、試練に打ち勝つことのできない私は、子供の前で発狂してしまったりする日があるのだ。
その時の自己嫌悪といったら。なぜ私は母親なのに、こんなに情けないのだろうかと。なぜ子供にこんな姿を見せているのだろうかと。母親のくせに、母親なのに、その言葉に絞め殺されそうになる。
生理に対する認識が少し変わってきているけど、実際はどうだろうか?
世の中の生理に対する認識は、少しずつ変わってきている。生理休暇というものができたり、生理の貧困が問題として取り上げられ国民が考える機会を与えられたり、「わかろう」としてくれているような“雰囲気”の活動が目にとまるようになってきた。
トゲのある言い方をしてしまったが、それはまだ「わかろうとしてくれているような『雰囲気』」どまりだと私は思えてならない。生理休暇を進言できる企業が、どれだけあるのだろうか。どれだけ上司に生理休暇を申請できる風土が、作られているのだろうか。生理の貧困という問題提起を、どれだけの国民が耳にしたことがあるのだろうか。
また、その上で真剣に考えてみてくれたのだろうか。男性の社会人がどれだけその制度に、問題に寄り添おうとしてくれているのだろうか。甚だ疑問である。
別にいいのだ。社会の制度がどうであろうと。生理休暇があろうとなかろうと。ただ、一人だけわかってくれたのなら。主人だけ、私に優しくしてくれれば。諦めかけたと言いながら、まだ全然諦めていない私がいて、そしてきっと、世の中の多くの女性が、「たった一人でいい、わかってくれればなぁ」と思っているに違いない。