生理痛って、男子が睾丸を100発殴られるのと同じ痛さらしい――似たような話を何度か聞いた。
これが事実であるかは誰にも分からない。
しかしこの俗信から感じるのは、女性の「わかってほしい」という心の叫びだ。

ただでさえ振り回される心と身体に、周囲の無理解がさらなる「痛み」の連鎖を生んでいるように思う。私もそれに加担している1人だと気づいたのは、初潮を迎えて何年も経ってからだった。

初潮から数年経って、当初ほとんどなかった生理痛を感じるようになった。
しかしなんとか立ち仕事が出来ていたので、「私は生理でも頑張って働いている」、そんな歪んだ自信をつけてしまった。

いつしか私は、生理に苦しむ女性たちの叫びを、同情しつつもどこか冷めた目で見るようになっていた。インターネット上の知らない女性だけでなく、同じように悩みを打ち明けてくれた友達でさえも。

実習がある時にあまりに痛い生理痛。でも、我慢するしかなかった

大学生になってしばらく経った頃、これから実習があるという時に生理が来てしまった。この日はあまりに痛くてベッドに横たわっていたが、休むわけにはいかなかった。

私の班は担当の先生を含め、自分以外全員男性だった。2人の小学生がいつのまにか私たちと一緒に作業を行っていたのだが、彼らもまた男の子だった。時に走り回って一緒に遊ぶ姿を見て、男子は気楽でいいなあなんて思ってしまった。

生理で具合が悪いと正直に話せば、「これだから女は」と思われてしまうかもしれない。
そうでなくても必要以上に心配されたり、気まずくさせてしまったりすると思うと我慢するしかなかった。

ここに女性がいたらどうだろう。「わかる、辛いよね。無理しないでね」と優しい言葉をかけてくれたり、さりげなく気遣ってくれたりするのではないかと期待した。

一方で、「私は生理中でもいつもどおり男子と一緒に活動しているんだから。甘えないでよ」と無神経に言ってくる女性もいると思うと、かえって落ち込んでしまった。
彼女は過去の私そのものだ。女性である私が女性の生きづらさを生んでいたのだと、この時になってやっと気がついた。

男性にしかわからない痛みを目の当たりにして、私は何も言えなかった

実習も後半に差し掛かった頃だった。木に上ろうとした男子小学生が、勢い余って股間を幹にぶつけてしまった。バラエティ番組なら効果音とともに笑いにされるような一場面だ。直前まで無邪気に笑っていた顔は一変し、「痛い!痛い!」と大声で泣きながら、のたうち回った。
同級生たちは失笑しつつも「俺もこういうことあった。痛いよなー」「落ち着けって。ちょっと休みなよ」と、その痛みを気遣って接していた。

そんなに痛いんだ。
男性にしかわからない痛みを目の当たりにして、私は何も言えなくなった。

自分の不甲斐なさを申し訳なく思った一方で、女性である私にはわからない痛みだから仕方ないと正当化したくなる気持ちもあった。生理についてどう触れていいかわからないという、男性の戸惑いにも似ていたのかもしれない。

それでも、目の前で痛いと泣く彼に手を差し伸べることは出来たはずだ。
私がしたことは、経験がないからといって生理の痛みを理解しようとしない人間と同じなのではないかと思った。

目の前の人の痛みに寄り添えたら。生きづらさは減らせるかもしれない

確かに、身体的な痛みは他人と共有できない。
しかし周囲が理解を示そうとしないことで、生きづらさという新たな「痛み」まで生まれているのではないか。行きついたのはそんな考えだった。

他者の身体や立場は身をもって体験することが出来ない分、私たちが持つべきものは想像力だ。他者を思いやるための想像力を培うのは、質の高い教養ではないだろうか。性教育はその最たるもので、今後もさらに充実させていく必要があると改めて思う。

何より、目の前の人の声に耳を傾けること。声を上げやすい環境づくりに努めること。そして、同じ目線の高さで一緒に答えを探すこと。

謙虚かつひたむきな姿勢で誰かの痛みに寄り添えたら、その先の「痛み」は減らせるかもしれない。