ものもらいができた。左の瞼の上に。
まばたきのたびに瞼が重くて、それはそれで気になるのだけど、なによりも気分が落ち込みのは朝。顔を洗ってメイクをする時だ。

ものもらいが出来て、メイクができなくなった。うれしいはずなのに…

特別メイクにこだわりがあるわけではないと思う。雑誌に特集されるコスパの良いプチプラや高価なブランド品の情報を知らないわけではない。

でもそれらの新色ごとに買うとか、季節や流行に合わせてメイクを変えるといった特段のこだわりがあるわけではないから。

メイクは社会人になるための身だしなみの1つにくらいしか考えていないし、何だったらお仕事で疲れた日にメイクを落とさないとって時は、なんでメイクなんてと眠気眼に思っていた。

まつ毛のきわのもらいには、速攻で腫れが引くような治療法はないし、薬を使ってちょっとづつ腫れが引いていくのを待つしかない。
触ると痛いので、当たり前だけどメイクは出来ない。朝のメイクの時間も夜落とす時間も全部いらなくなった。それはうれしいはずなのに、私の気持ちはあまり晴れなかった。

もちろん、メイクが出来ない理由が瞼が腫れている違和感と一緒なのだから幸せってわけにはいかない。でものその違和感以上に、鏡を見た時の自分が、鏡を見る事が嫌になった。
私の感じる違和感とは違う、つまらなそうな辛そうな、可愛げのない顔になっているから。

メイクは社会人の身だしなみの1つとして、とりあえずやっていた

メイクは社会人としての身だしなみの1つだと思っていた。忙しい朝にメイクをする事も、眠い夜にメイクを落とすことも。メイクで特別に可愛くなれるとも思っていない私にとってメイクはただ、はみ出さないように奇抜にならない様に、とりあえずやっているものだった。

わざわざメイクして落として、肌にも悪い事だってあるのに。ずっとそう思っていたけど、メイクは身だしなみとしてだけじゃなかった。
メイクする時間は、私が私を確認する時間だった。元気に楽しく過ごしているか、辛いことがあって自分の事をおろそかにしていないか。

そういう些細な事を感じて、お気に入りの色やパッケージで自分を元気にする時間だったのだと今なら分かる。
ふと鏡に映る自分の顔がなんだか疲れていたら、気分も下がるから。

見る機会は少なくても案外、私は私の顔をよく見ていた。

メイクはいつの間にか、毎日のストレスから私を回復させてくれていた

ちょっと嫌な事があっても、お気に入りの色で私が綺麗に見えたらきっとちょっとだけ元気になる。朝、出かけるのが面倒な時でも大好きなパッケージのアイテムだったら、楽しみになる。

そんな風に毎日のストレスから、少しだけ私を回復させてくれていたのだと思う。
メイクをして、リップを塗って鏡の目で笑ってみる。それだけの、ほんの小さな瞬間で私は救われていたのだ。

どんなに疲れていても、明日のためにメイクを落として素肌を綺麗にする。それを頑張る時間は私を大切にしていると実感できたのだ。
ものもらいが治ったら、お気に入りのメイクを探そう。社会人の身だしなみとして、強制されるメイクではなく、私が楽しく過ごせるようなお気に入りのメイクを探していこう。