女四半世紀。25歳。四捨五入の概念を以てすればアラサーという呼称にカテゴライズされてしまう齢。「女の子」や「女子」とも名乗りにくい、けれど「オバサン」とはまだ言いたくない。でもとりあえず「大人の女」の齢。
しかし、我が事ながら年齢を訊かれ、「25です」と答えると心の中では「えっ、もう私25なの」と衝撃を覚えることも実はまだある。
若いとか、若くないとか、成人しているという意味での「大人」ではなく、言うなれば“成熟”しているという意味での「オトナ」という雰囲気を纏えていない気がしたまま、20代の後半戦へと突入してしまった。
メイクという武装を充分に施せない丸腰のまま。

メイクくらい普通にするのが大人の女だと思うけど、私はほぼすっぴん

成人式から5年も経過して、ただの20代ど真ん中の1人の女は、ほぼ毎日をすっぴんで過ごしている。
私の個人的な見解だが「大人の女」はメイクくらい普通にしているに決まっていると思っている。
個人的な見解というよりも、むしろ偏見と言っても良いくらいかもしれないが、ごく一般的な会社に勤める女性方は、最低限の身だしなみとして、義務かのようにメイクをしているものだと思っている。
家を出るときに鍵をかける、スマホや定期を持って出る、靴を履いて歩く、といった事と同じように。更にシーンに合わせて使い分け、己の「魅せ方」を知っているのだと思っている。
こんな風に考えているにもかかわらず私はというと、1週間のうち1回メイクをするかしないかである。出掛けには施錠もするし、スマホも定期も持って出るし、勿論靴も履くが、自分で言ったくせにこれらに並んで欠けているのはメイクだ。
一応私も働いているごく一般的な25歳の女だ。しかし、私の職業は飲食業であり、日々スーツやオフィスカジュアルといった服装で出勤する職場ではないということもあるかもしれない。
メイクが禁止というわけではないが、職務上での服装や身だしなみの上では特段必要ではない、なくても問題がない。あとは個人的には厨房で慌ただしく動き、時には汗も浮かんでくる程の状況の中では、意味をなさないのであればしなくていいのでは、という考えの下で出勤の際にメイクを施さない。

プライベートもメイクという武装で、己を魅せることが出来ない

1人の飲食業に就く女がノーメイクである理由はこうなのだが、では、1人のただの25歳の「大人の女」に戻った時はどうかというと仕事のある時はメイクが出来ない分、プライベートの時こそは!と気合いが入ると思いきや、これがまったくなのだ。まったく、メイクという武装をもってして、己を魅せることが出来ない。
これはまた、偏見のように聞こえてしまうかもしれないが、幼い頃はメイクとは足りないものを補う、造る、隠したいものを隠すものだと思っていた。
そしてそれはすればする程、濃ければ濃い程良くないものだと思い込んでいたし、その行為が必要になるということは、歳を重ねてからこそ必要になるものだとも思い込んでいた。
厚化粧、という単語があるように、厚く化粧をするというのはファンデーションを厚く塗ることや派手な色で目元や唇を彩ることだと思い、ファンデーションをたくさん塗るということはそれによって隠したいものがあり、足りていないと思う眉や二重幅は描き、造る。
たまに「メイクを落としたら誰だか分からない、まったくの別人が現れた」「ばっちりメイクの時に出会った彼の前でメイクが落とせない」なんて話を聞く事もある。こんな話を耳にした時は、それくらいメイクというのはいつもと違う顔へと変身する事の出来る手段にもなりうるものだな、そんな腕前のある人はすごいなという感想が浮かぶと同時に「私は別の顔になってしまう程のメイクは要らないなあ」とも思ってしまうのだ。
先に弁解をしておくと、メイクなんて要らないくらい素の顔に自信がある、ということではない。

濃い顔立ちの上に、メイクは隠すものと造るものという先入観があった

しかし、幼い頃から二重まぶたの目元はほめられて来たし、とりわけ睫毛に関しては長くてふさふさだと羨ましがられた。笑うとぶくっと浮き出る涙袋なるものの存在を指摘されたときは、私自身はコンプレックスに感じていた特徴だったが、それを描いて存在感を出すメイクが流行ったときは存在が許されるものだったのかと驚いた。
眉毛も生まれつき濃くて、ノーメイクの時に「眉毛が無い」という状況にはなかなか共感が出来ない。
このように、メイクが必要なかった幼い時分から濃い顔立ちであることを他人から言われて育った上に、メイクは顔を変えることが出来てしまう、むしろメイクは隠すものと造るもの、という先入観を持ったまま過ごしたせいもあり、メイクをしないと外に出られない顔ではない、と油断をしていたのだ。
今日「大人の女」の齢よりも遥かに若い「何かを隠したり、造ったり」する必要のない、10代の女の子だって「メイク」で己を魅せている。顔全体を変える必要がなくても、とあるポイントだけ手を加えて持っているものをより魅力的に魅せるやり方を知っている。

メイクは武力という先入観を辞め、己を彩り魅せるものとして学びたい

ノーメイクの時分を見て来て、昔の顔を知っている同級生が外科的な整形を施しているわけではないのに、面影を残しつつも見違えてぐんと垢抜けて美しくなっている。
シーンごとに服装や髪型も合わせて違う魅力をその時々で魅せてくる彼女たちになっているスナップを目にする。
「大人の女」だ。”成熟”した「オトナ」の雰囲気をメイクによって纏えている。
5年前の成人式に結集した地元のプロの美容師らに髪型のセットからメイクまで施してもらったあの時とは違う。もう、己の手で己に似合うメイクを知っていて、己に施すことができる。彼女たちにとってメイクというものは私が思っている外出する時の施錠をすること、スマホや定期を持って出ること、靴を履くことと同じかは分からないがとても身近にあり、使いこなせている魅力的な武器になっているのだと思う。
いや、このメイクを「武力」として考えることから辞めたほうが良いのかもしれない。
私はそろそろ、戦う(何との戦いかは分からないが)ためのメイクではなく己を魅力的に魅せるために、何かを隠したり造るためでなく、己の持つものを魅力的に彩るためにメイクを学びたい。
このメイクとの距離感を縮めて、魅力的になりたい。